は行

2006年01月08日

本多 政材
1889(明治22)
1964(昭和39)

◇昭和期の陸軍軍人(中将)。

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本多 平八郎

⇒ほんだ ただかつ(本多 忠勝)

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本田 美禅
1868(慶応 4. 5.20)
1946. 3.29(昭和21)

◇小説家。本名は浜太郎。
(*)明治元年は 9. 8から。

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本多 利長
1635(寛永12)
1692(元禄 5)

◇江戸前・中期の大名。

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本多 利明
1743(寛保 3)
1820(文政 3.12.22)

◇江戸末期の経世家・和算家。幼名は長五郎のち繁八、通称は三郎右衛門、号は北夷・魯鈍斎・北夷先生、江戸音羽に住み音羽先生と呼ばれる。本多伊兵衛の子。越後国蒲原郡村山の生れ。
 18歳で江戸に出て関流の和算を今井兼廷に、天文・暦学を千葉歳胤に、剣を山県大弐に学ぶ。
 24歳の時、音羽に算学の塾を開き、かたわら蘭学を学び、開国・貿易・北防を説く。蘭書に地理を学び、1801年蝦夷地に渡航。1808(文化 5)幕府から蝦夷地案内役に召されるが、辞退して門弟最上徳内(モガミ・トクナイ)を派遣。
 1809(文化 6)加賀藩に出仕、のち江戸に帰る。
(2)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没年は1820(異)21(文政 3)。本田とも記す。算学を今井兼庭に……。1809(文化 6)加賀藩に20人扶持で1年半ほど仕官したほかは……。
 '08幕府から蝦夷地案内役に召されたが,自らは辞退して門弟最上徳内を推した。
 「最上徳内」の項:1786(天明 6)幕命により利明に代って蝦夷地探検に赴き……。
(4)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1821。
(6)ほんだ としあきら(本多 利明)。生年は1743、没年は1820か21。今井兼廷に関流の和算……。晩年は招かれて加賀藩に出仕した。
(15)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没年は1820(文政 3)。
(16)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1820。算学を今井兼延・建部賢弘に学び…….1809(文化 6)加賀藩主に招聘されたが,半年にして江戸に帰る.
(*)1801(寛政13,享和元)。

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本多 貞吉
1766(明和 3)
1819(文政 2)

◇江戸後期の陶工。

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本多 忠政
1575(天正 3)
1631(寛永 8)

◇江戸前期の大名。通称は平八郎・美濃守。三河の人。忠勝(タダカツ)(平八郎)の子、母は阿知和右衛門の娘。忠刻(タダトキ)の父、妻は徳川信康(ノブヤス)の娘熊姫(クマヒメ)。
 徳川家康に仕える。
 1617(元和 3)播磨国姫路15万石を与えられる。

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本多 忠利
1635(寛永12)
1700(元禄13)

◇江戸前・中期の大名。

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本多 忠刻
1596
1626(寛永 3)

◇江戸前期の大名。初名は忠為、通称は平八郎。忠政(タダマサ)の子、忠勝(タダカツ)の孫。
 1615(慶長20. 5.)大坂夏の陣に従軍。豊臣秀頼(ヒデヨリ)に嫁ぎ夏の陣で救出された徳川家康の孫千姫(センヒメ)と1616(元和 2)結婚。1617(元和 3)播磨10万石を与えられる。姫路で死去。
(*)1596(文禄 5,慶長元)。

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本多 忠次
1547(天文16)
1612(慶長17)

◇安土桃山・江戸初期の武士。

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