ま行

2006年01月08日

門間 春雄
1889. 2. 9(明治22)
1919. 2.13(大正 8)

◇歌人。福島県信夫郡瀬上町生れ。長塚節に傾倒する。

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文観
1278
1357(<南>正平12,<北>延文 2)

◇鎌倉末期・南北朝時代の真言宗立川流の僧侶。初めは弘真(コウシン)。小野僧正。
 初め天台を、のち奈良で法相・三論を学び、京都伏見の真言宗醍醐寺で密教を修め、仁寛(ニンカン)の創始した立川流を大成。
 金剛寺(現:大阪府河内長野市天野<アマノ>町)の僧となり、後醍醐天皇の帰信を得て、南朝興隆を画策。内供奉を務め、東寺長者となり大僧正に進む。弾劾を受けて失脚し、甲斐国(現:山梨県)に流される。のち後村上天皇の勅命で中央に復帰するが、南朝と運命をともにした。
(*)1278(建治 4,弘安元)。
◎弘法大師の承伝と称して印信・経文などを偽作したとされ、名僧とも妖僧とも言われる。
◎大日如来の四隅にある普賢・文殊・観音・弥勒の四菩薩から自らを文観、妻を普弥と呼び、曼陀羅の絵図を敷いて夫婦で交合し、自分の漏らした精液を練り固めて玉を作り信者に分け与えたという。

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文覚
生年不詳
没年不詳

◇平安末期・鎌倉初期の僧侶(真言宗)。俗名は遠藤盛遠(モリトオ)。

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諸橋 轍次
1883(明治16)
1982(昭和57)

◇昭和期の漢学者・中国哲学者。号は止軒。新潟県南蒲原下田村生れ。東京高等師範学校(東京教育大学の前身,現:筑波大学)卒業。
 大修館社長鈴木一平の懇望により、1928(昭和 3)漢和辞典の編纂を開始し、1943. 9.(昭和18)第1回配本、戦争となり被災し中止。戦後再開し、1955.11.(昭和30)『大漢和辞典』(全13巻)第1巻を刊行、1960(昭和35)完結。
 1965(昭和40)文化勲章を受章。

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毛呂 清春
1877. 4.18(明治10)
1966. 9. 5(昭和41)

◇歌人。京都の神官の家に生れる。国学院大学卒業。
 浅香社に入り、萩之舎門下の林信子(毛呂信子)と結婚。1903(明治36)丸岡桂らと『莫告藻』を創刊。
 岩滝町の神社の神主となり、与謝野寛・晶子の歌碑を建立。

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モルガン お雪
1881(明治14)
1963(昭和38)

◇モルガン財閥夫人。本名は加藤ユキ。
 京都祇園芸者のときにモルガン財閥の子息ジョージ・モルガンから求婚され新聞記事となり、婚約中の京都大学生川上俊作の家族から反対を受けたため、1904(明治37)子息と横浜で結婚し渡米。
 パリに移り住み、社交界の花形となるが、10年ほどで夫と死別。愛人タンダール男爵とも死別し、帰国して郷里京都で余生を送る。

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護良 親王

⇒もりなが しんのう(護良 親王)

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森山 汀川
1880. 9.30(明治13)
1946. 9.17(昭和21)

◇歌人。本名は藤一。

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森山 多吉郎
1820(文政 3)
1871(明治 4)

◇幕末・明治維新期の通詞。名は憲直、初名は栄之助。長崎の代々の通詞。1848年に蝦夷の利尻島で捕えられ長崎に送られて来た米国捕鯨船員マクドナルドより英語を習う。1853(嘉永 6)ロシア使節プチャーチン一行が長崎へ来航した際、折衝に当る。1845年、米国使節ペリーとの折衝にも参加。維新後は新政府に仕えなかった。
 門人に津田仙(ツダ・セン)・福地桜痴(フクチ・オウチ)らがいる。
(*)1848(弘化 5,嘉永元)、1854(嘉永 7,安政元)。

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守屋 多々志
1912. 8.10(大正元)
2003.12.22(平成15)

◇日本画家。本名は守屋正(タダシ)。岐阜県大垣市出身。
 東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科卒業。
 1941(昭和16)院展に初入選。
 高松塚古墳の壁画模写に従事。
 2001(平成13)文化勲章、受章。

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