2006年01月08日

鷲津 毅堂
1825.12.17(文政 8.11. 8)
1882.10. 5(明治15)

◇江戸幕末・明治前期の漢学者・漢詩人。名は宣光(ノブミツ)、字は重光、通称は九蔵、別号は蘇州。尾張国丹波郡丹波村生れ。漢学者鷲津益斎の長男、次女恒は永井荷風の母。
 昌平黌に学ぶ。明治政府に出仕し、登米県(現:宮城県)権知事・司法権書記官。
(23)名ははじめ文郁また重光(宣光<ノリミツ>),……。

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鷲津 宣光

⇒わしづ きどう(鷲津 毅堂)

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鷲巣 繁男
1915. 1. 7(大正 4)
1982. 7.27(昭和57)

◇詩人。祖父の代よりの正教徒で、洗礼名はダニール(ギリシャ正教徒)。横浜市生れ。横浜商業卒業。
 北海道開拓作業などに従事。

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鷲津 毅堂

⇒わしづ きどう(鷲津 毅堂)

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鷲尾 雨工
1892. 4.27(明治25)
1951. 2. 9(昭和26)

◇歴史小説家。本名は浩。新潟県新蒲原郡黒崎村大字黒島生れ。
 幼く父を失い、母の生家新潟県北魚沼郡小千谷町の叔父中野為治に養われる。小千谷中学校を経て、1915(大正 4)早稲田大学英文科卒業。

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和気 真綱
 783(延暦 2)
 846.10.20(承和13. 9.27)

◇平安前期の学者・官僚。和気清麻呂の5男、広世(ヒロヨ)の弟。

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和気 広世
生年不詳
没年不詳

◇奈良末期・平安初期の医者。和気清麻呂の長男、真綱(マツナ)の兄。
 大学別当になり、 800(延暦19)~ 808(大同 3)ころ私邸に弘文院を創立。

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和気 広虫
 730(天平 2)
 799(延暦18)

◇奈良末期・平安初期の女官。乎麻呂(オマロ)の子、清麻呂の姉。
 孝謙上皇に仕え、 762(天平宝字 6)上皇の出家に従い法均尼(ホウキンニ)と称する。
  769(神護景雲 3)道鏡事件で弟清麻呂に縁坐して備後国(広島県)に流される。上皇が崩御し道鏡が失脚の後、許されて召還。 774(宝亀 5)和気朝臣を賜る。 785(延暦 4)正四位上、 789(延暦 8)内侍司典侍(テンジ)となる。

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和気 清麻呂
 733(天平 5)
 799(延暦18. 8.21)

◇奈良末期・平安初期の政治家。旧姓は磐梨別公、のち藤野別(和気)真人。備前国藤野郡の人。乎麻呂の子、広虫(ヒロムシ)の弟、広世(ヒロヨ)・真綱(マツナ)の父。
  764(天平宝字 8. 9.11)孝謙上皇の寵愛を受ける道鏡を除こうとした藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、功を立てて藤野和気真人の姓を賜る。 767年、輔治能真人の姓を賜り、因幡員外介。
  769(神護景雲 3)道鏡が宇佐八幡の神託と称して皇位を窺ったとき、藤原氏の勢力を背景に勅使として再度宇佐八幡の神託を受けてこれを退けたため、道鏡の怒りを買い、名を別部穢麻呂(ワケベノキタナマロ)と改め大隅に流される。
 上皇が崩御して道鏡が失脚の後、 770年召還され光仁・桓武天皇に仕え信任を得る。 774(宝亀 5)朝臣の姓を賜る。平安遷都に尽力、従三位に昇進。
 京都の護王(ゴオウ)神社に祀られる。
(*) 767(天平神護 3,神護景雲元)、 770(神護景雲 4,宝亀元)。
◎清麻呂の持ち帰った宇佐八幡の神託:わが国は開闢以来君臣定まりぬ。臣をもって君となすこといまだこれあらざるなり。天つ日嗣(ヒツギ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしくはやく掃ひ除くべし。
◎道鏡事件の功で和気朝臣の姓が与えられた。
◎岡山県和気町の和気清麻呂や広虫などを祀(マツ)る和気神社の入口に朝倉文夫作の清麻呂の銅像がある。
◎太平洋戦争まで三大忠臣(和気清麻呂・名和長年<ナワ・ナガトシ>・楠木正成<クスノキ・マサシゲ>)の一人として軍部に利用された。
◎皇居竹橋近くの清麻呂公園に1940(昭和15)紀元二千六百年記念に建てられた立像がある。
◎江戸川柳:道鏡は座ると三つ膝ができ。

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和気 律次郎
1888. 1.29(明治21)
1975. 5.22(昭和50)

◇翻訳家・小説家。筆名は水上規矩夫・和気律。松山市生れ。
 1909(明治42)慶応義塾大学予科中退。
 1916(大正 5)やまと新聞社から大阪毎日新聞社に移り、1940(昭和15)大阪毎日新聞社を定年退職。

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