2006年01月08日
青木 周蔵
1844(天保15. 1.)
1914. 3.16(大正 3)
◇明治期の外交官・政治家。長州藩出身。
1873(明治 6)駐独外務一等書記官。
1889(明治22)第1次山県内閣の外務大臣、1891(明治24)第1次松方内閣の外務大臣、1891(明治24)大津事件で辞職。
1894(明治27)イギリス公使として陸奥宗光外務大臣に協力して日英通称条約の改正に成功。
晩年、枢密顧問官。
1844(天保15. 1.)
1914. 3.16(大正 3)
◇明治期の外交官・政治家。長州藩出身。
1873(明治 6)駐独外務一等書記官。
1889(明治22)第1次山県内閣の外務大臣、1891(明治24)第1次松方内閣の外務大臣、1891(明治24)大津事件で辞職。
1894(明治27)イギリス公使として陸奥宗光外務大臣に協力して日英通称条約の改正に成功。
晩年、枢密顧問官。
青木 繁
1882. 7.13(明治15)
1911. 3.25(明治44)
◇明治期の洋画家。日本神話を描く、挿絵もある。福田蘭童(ランドウ)の父。東京生れ。
肺結核のため、麻布中学を中退。1904(明治37)東京美術学校を卒業。
結核により福岡松浦病院で死去。
(2)1899(明治32)久留米中学明善校を3学年で退学、洋画家を志して上京、不同舎に入る。翌年東京美術学校に入学、……。
(4)久留米生れ。
(6)久留米生まれ。1899年上京,小山正太郎の不同舎に入る。1904年東京美術学校西洋画科選科卒。
(16)福岡県久留米の人.小山正太郎の不同舎に学び、のち東京美術学校に入学,1904(明治37)年同校洋画科選科を卒業.
1882. 7.13(明治15)
1911. 3.25(明治44)
◇明治期の洋画家。日本神話を描く、挿絵もある。福田蘭童(ランドウ)の父。東京生れ。
肺結核のため、麻布中学を中退。1904(明治37)東京美術学校を卒業。
結核により福岡松浦病院で死去。
(2)1899(明治32)久留米中学明善校を3学年で退学、洋画家を志して上京、不同舎に入る。翌年東京美術学校に入学、……。
(4)久留米生れ。
(6)久留米生まれ。1899年上京,小山正太郎の不同舎に入る。1904年東京美術学校西洋画科選科卒。
(16)福岡県久留米の人.小山正太郎の不同舎に学び、のち東京美術学校に入学,1904(明治37)年同校洋画科選科を卒業.
青木 昆陽
1698(元禄11. 5.12)
1769(明和 6.10.12)
◇江戸中期の儒学者・蘭学者。名は敦書(アツブミ)、字は厚甫、通称は文蔵、号は昆陽。江戸日本橋の魚問屋に生れる。
伊藤東涯に師事。与力加藤枝直が昆陽の『蕃薯考』(1735<享保20>)を町奉行大岡忠相に推挙、忠相の知遇を受ける。1739(元文 4)御書物御用達。第8代将軍吉宗の内示により蘭学を修める。のち書物奉行。
オランダ語の初歩を修め、前野良沢に教える。
没後、甘藷先生と称される。
◎東京都文京区の小石川植物園の甘藷試作の地に青木昆陽碑がある。
1698(元禄11. 5.12)
1769(明和 6.10.12)
◇江戸中期の儒学者・蘭学者。名は敦書(アツブミ)、字は厚甫、通称は文蔵、号は昆陽。江戸日本橋の魚問屋に生れる。
伊藤東涯に師事。与力加藤枝直が昆陽の『蕃薯考』(1735<享保20>)を町奉行大岡忠相に推挙、忠相の知遇を受ける。1739(元文 4)御書物御用達。第8代将軍吉宗の内示により蘭学を修める。のち書物奉行。
オランダ語の初歩を修め、前野良沢に教える。
没後、甘藷先生と称される。
◎東京都文京区の小石川植物園の甘藷試作の地に青木昆陽碑がある。