2006年01月08日
愛新覚羅 溥儀
1906<光緒32>(明治39)
1967(昭和42)
◇中国、清朝最後の皇帝。姓は愛新覚羅、名は溥儀。醇親王(ジュンシンオウ)載(三水偏+「豊」)(サイホウ)の子、溥傑(フケツ)の兄。
清朝第12代皇帝、宣統帝(在位:1908~1912)。辛亥革命により退位するが、皇帝の称号と年金を受ける。
1924(大正13)馮玉祥(フウ・ギョクショウ)のクーデタで紫禁城を脱出し、日本の保護を受ける。1932(昭和 7)日本軍部に擁せられ満州国の執政、1934(昭和 9)皇帝(康徳帝)(在位1934~1945)。
日中戦争後、ソ連に抑留される。1950(昭和25)中国で戦犯となり、1959(昭和34)特赦で一市民となる。
著書は『わが半生』。
◎ラストエンペラーと呼ばれる。
1906<光緒32>(明治39)
1967(昭和42)
◇中国、清朝最後の皇帝。姓は愛新覚羅、名は溥儀。醇親王(ジュンシンオウ)載(三水偏+「豊」)(サイホウ)の子、溥傑(フケツ)の兄。
清朝第12代皇帝、宣統帝(在位:1908~1912)。辛亥革命により退位するが、皇帝の称号と年金を受ける。
1924(大正13)馮玉祥(フウ・ギョクショウ)のクーデタで紫禁城を脱出し、日本の保護を受ける。1932(昭和 7)日本軍部に擁せられ満州国の執政、1934(昭和 9)皇帝(康徳帝)(在位1934~1945)。
日中戦争後、ソ連に抑留される。1950(昭和25)中国で戦犯となり、1959(昭和34)特赦で一市民となる。
著書は『わが半生』。
◎ラストエンペラーと呼ばれる。
会沢 安
1781(天明元. 5.25)
1863(文久 3. 7.14)
◇江戸後期の学者。名は安、字は伯民、通称は恒蔵、号は憩斎・正志斎(セイシサイ)。常陸国久慈郡諸沢村生れ。水戸藩の下士。
藤田幽谷に学び、幼少の徳川斉昭(ナリアキ)を指導。斉昭の長兄の水戸藩主徳川斉脩(ナリナガ)に子がなく、藩内に第11代将軍家斉(イエナリ)の子を藩主に迎えようとする上層保守派があったが、藤田東湖(トウコ)(幽谷の子)・安島帯刀(アジマ・タテワキ)ら下士改革派と斉昭を擁立、1829(文政12)斉脩の死去により斉昭が第9代藩主を継ぐ。これにより東湖らとともに藩政改革に参画。
弘道館教授。彰考館総裁。
(4)生年は1782。
(6)生年は1782。
(16)生日は1781(天明1. 5/25)。
(26)生年は1782。
1781(天明元. 5.25)
1863(文久 3. 7.14)
◇江戸後期の学者。名は安、字は伯民、通称は恒蔵、号は憩斎・正志斎(セイシサイ)。常陸国久慈郡諸沢村生れ。水戸藩の下士。
藤田幽谷に学び、幼少の徳川斉昭(ナリアキ)を指導。斉昭の長兄の水戸藩主徳川斉脩(ナリナガ)に子がなく、藩内に第11代将軍家斉(イエナリ)の子を藩主に迎えようとする上層保守派があったが、藤田東湖(トウコ)(幽谷の子)・安島帯刀(アジマ・タテワキ)ら下士改革派と斉昭を擁立、1829(文政12)斉脩の死去により斉昭が第9代藩主を継ぐ。これにより東湖らとともに藩政改革に参画。
弘道館教授。彰考館総裁。
(4)生年は1782。
(6)生年は1782。
(16)生日は1781(天明1. 5/25)。
(26)生年は1782。
相沢 茂明
1910. 3.15(明治43)
1981. 6.28(昭和56)
◇労働運動家・政治家。神奈川県生れ。
1929(昭和 4)東京鉄道教習所専修部修了し、同年東京鉄道局に入る。
太平洋戦争後、神奈川県労働金庫理事長・1948(昭和23)国鉄労働組合中央執行委員。
1953(昭和28)組合闘争の責任を問われ解雇、同年参議院選挙の神奈川地方区から社会党公認で立候補し落選。1954(昭和29)総評副議長。1955(昭和30)神奈川知事選挙にも落選。1956(昭和31)参議院選挙で初当選、1962(昭和37)再選。
1967(昭和42)収賄容疑で起訴され、有罪判決を受けその上告中に病死。
1910. 3.15(明治43)
1981. 6.28(昭和56)
◇労働運動家・政治家。神奈川県生れ。
1929(昭和 4)東京鉄道教習所専修部修了し、同年東京鉄道局に入る。
太平洋戦争後、神奈川県労働金庫理事長・1948(昭和23)国鉄労働組合中央執行委員。
1953(昭和28)組合闘争の責任を問われ解雇、同年参議院選挙の神奈川地方区から社会党公認で立候補し落選。1954(昭和29)総評副議長。1955(昭和30)神奈川知事選挙にも落選。1956(昭和31)参議院選挙で初当選、1962(昭和37)再選。
1967(昭和42)収賄容疑で起訴され、有罪判決を受けその上告中に病死。
相沢 三郎
1889. 9. 6(明治22)
1936. 7. 3(昭和11)
◇陸軍軍人・中佐。宮城県生れ。父は仙台藩士兵之助、母は仙台藩士羽田善助の娘まき子。妻は米子。
仙台陸軍幼年学校を経て、1910(明治43)陸軍士官学校卒業。
1910(明治43)仙台歩兵第29連隊に配属、東久迩稔彦(ナルヒコ)親王が中隊長であった。1918. 6.(大正 7)中尉として台湾歩兵第1連隊に転勤。1920(大正 9)戸山学校教官。1926. 8.(大正15)熊本の歩兵第13連隊中隊長。1927. 7.(昭和 2)少佐となり東京の歩兵第1連隊付。1931. 5.(昭和 6)青森の歩兵第5連隊大隊長、このころから憲兵にマークされる。1932. 8.(昭和 7)秋田の歩兵第17連隊付。1933. 8.(昭和 8)中佐として福山の歩兵第41連隊付。
皇道派と統制派の抗争から狂信的な皇道派だった相沢は、真崎教育総監罷免直後に上京し、1935. 7.19(昭和10)統制派の中心人物の軍務局長永田鉄山少将に辞職を勧める。 8.12永田鉄山を陸軍省内で斬殺(永田事件)。
1936. 5. 7(昭和11)第1師団軍法会議で死刑となり、 6.30陸軍高等軍法会議で上告棄却。 7. 3、二・二六事件の反乱将校らとともに銃殺刑。(+)『検索!二・二六事件』雄山閣出版1993年 8月 1日印刷田々宮英次郎:著1993年 8月20日発行
中佐は明治二十二年九月九日、父の任地である福島県白河町に生れたが、本籍は仙台市東六番町にあった。
1889. 9. 6(明治22)
1936. 7. 3(昭和11)
◇陸軍軍人・中佐。宮城県生れ。父は仙台藩士兵之助、母は仙台藩士羽田善助の娘まき子。妻は米子。
仙台陸軍幼年学校を経て、1910(明治43)陸軍士官学校卒業。
1910(明治43)仙台歩兵第29連隊に配属、東久迩稔彦(ナルヒコ)親王が中隊長であった。1918. 6.(大正 7)中尉として台湾歩兵第1連隊に転勤。1920(大正 9)戸山学校教官。1926. 8.(大正15)熊本の歩兵第13連隊中隊長。1927. 7.(昭和 2)少佐となり東京の歩兵第1連隊付。1931. 5.(昭和 6)青森の歩兵第5連隊大隊長、このころから憲兵にマークされる。1932. 8.(昭和 7)秋田の歩兵第17連隊付。1933. 8.(昭和 8)中佐として福山の歩兵第41連隊付。
皇道派と統制派の抗争から狂信的な皇道派だった相沢は、真崎教育総監罷免直後に上京し、1935. 7.19(昭和10)統制派の中心人物の軍務局長永田鉄山少将に辞職を勧める。 8.12永田鉄山を陸軍省内で斬殺(永田事件)。
1936. 5. 7(昭和11)第1師団軍法会議で死刑となり、 6.30陸軍高等軍法会議で上告棄却。 7. 3、二・二六事件の反乱将校らとともに銃殺刑。(+)『検索!二・二六事件』雄山閣出版1993年 8月 1日印刷田々宮英次郎:著1993年 8月20日発行
中佐は明治二十二年九月九日、父の任地である福島県白河町に生れたが、本籍は仙台市東六番町にあった。