2006年01月08日

若松 賎子(若松 賤子)
1864(元治元. 3. 1)
1896. 2.10(明治29)

◇明治時代の翻訳家・小説家。本名は松川甲子(カシ)、通称は島田嘉志子・島田嘉志、旧姓は島田。岩代国会津郡若松(現:福島県会津若松市)阿弥陀町六生れ。
 横浜野毛のミス・キダアの女学校を経てフェリス女学校に転学、1882(明治15)第一回高等科卒業、直ちに同校の英語助教となる。
 1889. 7.(明治22)夏、巌本善治(イワモト・ヨシハル)と結婚。夫善治が管理する明治女学校が1896. 2. 5(明治29)焼失し、五日後に持病の肺疾患に心臓麻痺を併発し病没。
(1)本名松川甲子(カシ)。
(2)(名)巌本嘉志子,旧姓田島。
(3)通称は島田嘉志。会津藩士松川勝次郎の長女として生れた。明治三、七歳で生母に死別、大川甚兵衛の養女として……。
(5)通称は島田嘉志(カシ)。父は会津藩士松川勝次郎。甲子は明治三年母に死別し、大川甚兵衛の養女となり(一八年松川姓に復籍)。
(10)会津藩士松川勝次郎の長女として生れた。本名松川甲子(カシ)、通称島田嘉志。戊申の役に家が没落、明治三年六歳で生母に死別し、大川甚兵衛の養女となり横浜に出て、ミス=キダーの学校(現・フェリス女学院)の生徒となった。一五年フェリス女学院高等科卒業。
(11)本名松川甲子(カシ)。通称は島田嘉志(カシ)。父は会津藩士松川勝次郎。甲子は明治三年母に死別し、大川甚兵衛の養女となり……。
(13)本名巌本嘉志子。元治元年一月会津若松に藩士島田勝次郎の長女として生まる。幼名甲志(カシ)で生年甲子に、筆名は生地に由来している。両親没後米人の許に育てられ、……。

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若林 牧春
1886. 9.11(明治19)
1974. 6.29(昭和49)

◇歌人。本名は岡部軍治。現在の東京都町田市生れ。
 北原白秋に師事。

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若林 強斎
1679(延宝 7)
1732(享保17)

◇江戸中期の朱子学者。浅見絅斎(ケイサイ)の門人。
 京都錦小路に塾を開く。

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若林 (「王」偏+「甘」)蔵
1857(安政 4. 8. 2)
1938. 5.13(昭和13)

◇速記者。初名は銓太郎。武蔵生れ。
 明治法律学校(現:明治大学)に学び、かたわら1882(明治15)日本傍聴筆記法講習会第一回講習生となる。
 1890(明治23)国会開設に際し、衆議院速記主任となる。

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若槻 礼次郎
1866(慶応 2. 2. 5)
1949.11.20(昭和24)

◇大正・昭和期の政治家。松江生れ。東京帝国大学仏法科卒業。
 大蔵省に入り、大蔵次官を経て、第3次桂太郎・第3次大隈重信両内閣の大蔵大臣。
 1924(大正13)第1次加藤高明内閣の内務大臣、1926. 1.26(大正15)首相の臨時代理を経て加藤高明の死後、憲政会総裁として組閣。翌年金融恐慌を迎え台湾銀行救済勅令案が枢密院で否決され総辞職。
 1930(昭和 5)ロンドン軍縮会議に首席全権として出席。
 1931. 4.(昭和 6)浜口雄幸内閣の総辞職により立憲民政党総裁となり組閣、官吏減俸を実施。中村震太郎銃殺事件・万宝山事件・満州事変が勃発し、協力内閣案で軍部と衝突し総辞職。
 1937. 7.(昭和12)重臣となり、日米開戦に反対。大戦末期は近衛文麿らと東条英機内閣打倒を画策。
 第1次内閣:1926. 1.30(大正15)、総辞職:1927. 4.20(昭和 2)。
 第2次内閣:1931. 4.14(昭和 6)、総辞職:1931.12.13(昭和 6)。

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若月 紫蘭
1879. 2.10(明治12)
1962. 7.22(昭和37)

◇国文学者・劇作家・演劇研究家。本名は保治(ヤスジ)。山口県防府市生れ。
 山口中学校・山口高等学校文科を経て、1903(明治36)東京大学英文科卒業。

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若杉 鳥子
1892.12.25(明治25)
1937.12.18(昭和12)

◇歌人・小説家。東京下谷生れ。
 茨城県古河の芸者置屋の養女となる。
 婦人プロレタリア作家の草分け。

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若杉 慧
1903. 8.29(明治36)
1987. 8.23(昭和62)

◇小説家。本名は恵(サトシ)。広島県生れ。広島師範卒業。
(3)若杉 慧(わかすぎ けい)。
(5)若杉 慧(わかすぎ さとし)。
(10)若杉 慧(わかすぎ けい)。
(11)若杉 慧(わかすぎ さとし)。

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ロレンソ
1526(大永 6)
1592

◇安土桃山時代の日本人イエズス(ヤソ)会士。本名は了西(ロレンソの当て字か)、肥前の生れといわれる。
 片眼は全盲、他眼は半盲の琵琶法師であったが、1551(天文20)ザビエルの教えを受けて受洗。ザビエルの帰国後、1559(永禄 2)ガスパル・ビレラに従って上洛し、第13代将軍足利義輝(ヨシテル)の許可を得て布教する。1563(永禄 6)イエズス会に入り、イルマン(修道士)となる。1569(永禄12)フロイスに従い織田信長に謁見、席上で朝山日乗と宗論を行う。のち大坂城で豊臣秀吉にも謁見する。
(2)トルレス=ヴィレラに従い,……。晩年は肥前国大村で,説教を続けながら,余生を送った。
(6)トレスに学び,ビレラとともに近畿を布教。長崎で没。
(16)ガスパル=ビレラに従って上京し,……。
(*)1592(天正20,文禄元)。

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六角 義賢
1521
1598(慶長 3. 3.12)

◇戦国時代の守護大名。字は四郎。六角定頼(サダヨリ)の子。近江国南部を領する。
 1539(天文 8)従五位下左京大夫。1549(天文18)将軍足利義晴を援(タス)けて三好長慶と摂津国江口で戦い敗退。義晴の没後、その子将軍義輝を援ける。1558年、義輝を奉じて三好の軍勢と京都白河で戦い、和議が成立し義輝とともに入洛。1559(永禄 2)子の義治(義弼)に家督を譲り、剃髪し抜関斎承禎と号する。1563(永禄 6)後藤氏父子を暗殺し内乱が起き(観音寺騒動)、衰退する。
 1568(永禄11. 9.)足利義昭(のち将軍)を奉じて入洛しようとした織田信長に対抗、浅井長政(ナガマサ)に近江国栗太郡観音寺城を攻められ、甲賀山中に敗走。のち三好・浅井氏らと結び、信長軍の羽柴秀吉の長浜城(ナガハマジョウ)・柴田勝家の長光城(チョウコウジョウ)に戦ったが、1570年降伏。各地を転々とし、病没。これをもって六角氏が滅ぶ。
(*)1521(永正18,大永元),1558(弘治 4,永禄元),1570(永禄13,元亀元)。

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