2006年01月08日
ろっかく よしかた《ろくかく よしかた》
六角 義賢
1521
1598(慶長 3. 3.12)
◇戦国時代の守護大名。字は四郎。六角定頼(サダヨリ)の子。近江国南部を領する。
1539(天文 8)従五位下左京大夫。1549(天文18)将軍足利義晴を援(タス)けて三好長慶と摂津国江口で戦い敗退。義晴の没後、その子将軍義輝を援ける。1558年、義輝を奉じて三好の軍勢と京都白河で戦い、和議が成立し義輝とともに入洛。1559(永禄 2)子の義治(義弼)に家督を譲り、剃髪し抜関斎承禎と号する。1563(永禄 6)後藤氏父子を暗殺し内乱が起き(観音寺騒動)、衰退する。
1568(永禄11. 9.)足利義昭(のち将軍)を奉じて入洛しようとした織田信長に対抗、浅井長政(ナガマサ)に近江国栗太郡観音寺城を攻められ、甲賀山中に敗走。のち三好・浅井氏らと結び、信長軍の羽柴秀吉の長浜城(ナガハマジョウ)・柴田勝家の長光城(チョウコウジョウ)に戦ったが、1570年降伏。各地を転々とし、病没。これをもって六角氏が滅ぶ。
(*)1521(永正18,大永元),1558(弘治 4,永禄元),1570(永禄13,元亀元)。
1521
1598(慶長 3. 3.12)
◇戦国時代の守護大名。字は四郎。六角定頼(サダヨリ)の子。近江国南部を領する。
1539(天文 8)従五位下左京大夫。1549(天文18)将軍足利義晴を援(タス)けて三好長慶と摂津国江口で戦い敗退。義晴の没後、その子将軍義輝を援ける。1558年、義輝を奉じて三好の軍勢と京都白河で戦い、和議が成立し義輝とともに入洛。1559(永禄 2)子の義治(義弼)に家督を譲り、剃髪し抜関斎承禎と号する。1563(永禄 6)後藤氏父子を暗殺し内乱が起き(観音寺騒動)、衰退する。
1568(永禄11. 9.)足利義昭(のち将軍)を奉じて入洛しようとした織田信長に対抗、浅井長政(ナガマサ)に近江国栗太郡観音寺城を攻められ、甲賀山中に敗走。のち三好・浅井氏らと結び、信長軍の羽柴秀吉の長浜城(ナガハマジョウ)・柴田勝家の長光城(チョウコウジョウ)に戦ったが、1570年降伏。各地を転々とし、病没。これをもって六角氏が滅ぶ。
(*)1521(永正18,大永元),1558(弘治 4,永禄元),1570(永禄13,元亀元)。
at 15:36│
│ら行