あ行
2006年01月08日
小幡 景憲
1572(元亀 3)
1663(寛文 3)
◇安土桃山時代の武将・江戸前期の軍学者。通称は勘兵衛。昌盛の三男。上野国の人。甲州流軍学の祖。
はじめ武田氏に仕え、武田氏滅亡後に牢人を経て、徳川秀忠に仕える。1633(寛永10)知行1,500石。
山鹿素行の師。高坂昌信に仮託して『甲陽軍鑑』を著す。
1572(元亀 3)
1663(寛文 3)
◇安土桃山時代の武将・江戸前期の軍学者。通称は勘兵衛。昌盛の三男。上野国の人。甲州流軍学の祖。
はじめ武田氏に仕え、武田氏滅亡後に牢人を経て、徳川秀忠に仕える。1633(寛永10)知行1,500石。
山鹿素行の師。高坂昌信に仮託して『甲陽軍鑑』を著す。
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小野 道風
894(寛平 6)
966(康保 3.12.27)
◇平安中期の書家。藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とともに三蹟(サンセキ)の一人。和様発達の基をなした。小野篁(タカムラ)の孫。
(4)正しくはミチカゼとよむ。
(6)みちかぜとも読む。
◎平安京の朱雀門(スザクモン)の額は弘法大師の筆になるが、道風には「朱」の字が「米」のように見えたので「米雀門」と嘲笑(アザワラ)って祟(タタ)りを受け急死したと言う。
894(寛平 6)
966(康保 3.12.27)
◇平安中期の書家。藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とともに三蹟(サンセキ)の一人。和様発達の基をなした。小野篁(タカムラ)の孫。
(4)正しくはミチカゼとよむ。
(6)みちかぜとも読む。
◎平安京の朱雀門(スザクモン)の額は弘法大師の筆になるが、道風には「朱」の字が「米」のように見えたので「米雀門」と嘲笑(アザワラ)って祟(タタ)りを受け急死したと言う。
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小野 篁
802(延暦21)
852(仁寿 2.12.22)
◇平安前期の漢詩人・歌人。その奔放な性格と参議になったことから野相公(ヤショウコウ)・野宰相(ヤサイショウ)とも呼ばれる。小野妹子(イモコ)の子孫、小野岑守(ミネモリ)の子、小町道風(トウフウ)の祖父。
837(承和 4)遣唐副使に任ぜられたが、出発の際に大使藤原常嗣(ツネツグ)と乗船のことに関して朝廷の処置に怒り、病と称して命を奉ぜず、隠岐(オキ)に流される。
840(承和 7)召還されて従三位・参議。
博学で、清原夏野・菅原清公らと『令義解(リョウノギゲ)』を編纂。
作品は『古今和歌集』・『経国集』・『和漢朗詠集』。
(6) 838~ 840隠岐に流された。
◎東京都台東区下谷2丁目に篁を祀(マツ)った小野照崎神社がある。
802(延暦21)
852(仁寿 2.12.22)
◇平安前期の漢詩人・歌人。その奔放な性格と参議になったことから野相公(ヤショウコウ)・野宰相(ヤサイショウ)とも呼ばれる。小野妹子(イモコ)の子孫、小野岑守(ミネモリ)の子、小町道風(トウフウ)の祖父。
837(承和 4)遣唐副使に任ぜられたが、出発の際に大使藤原常嗣(ツネツグ)と乗船のことに関して朝廷の処置に怒り、病と称して命を奉ぜず、隠岐(オキ)に流される。
840(承和 7)召還されて従三位・参議。
博学で、清原夏野・菅原清公らと『令義解(リョウノギゲ)』を編纂。
作品は『古今和歌集』・『経国集』・『和漢朗詠集』。
(6) 838~ 840隠岐に流された。
◎東京都台東区下谷2丁目に篁を祀(マツ)った小野照崎神社がある。
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小野 小町
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。仁明・文徳朝ころの人。小野篁(タカムラ)の子の出羽郡司小野良真の娘、小野宰相常詞の娘など、出生については諸説あって不明。
恋愛歌で知られ、『古今和歌集』など勅撰集に62首が入っている。家集の『小町集』(1巻)は後人の撰。
文屋康秀・凡河内躬恒・在原業平・安倍清行・小野貞樹・僧遍昭らとの贈答歌がある。
絶世の美女としても有名で、謡曲・浄瑠璃・御伽草子などの題材となったり、全国の小町塚や小町誕生の井戸などいろいろな伝説が多い。
◎「花の色はうつりにけりないたづらに/わが身よにふるながめせしまに」(百人一首)。
◆小町堂まつり[ 6.20]秋田県雄勝郡雄勝町(オガチマチ)の小町堂で追善の催し。
忌日は旧暦 3.18とされている。
生年不詳
没年不詳
◇平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。仁明・文徳朝ころの人。小野篁(タカムラ)の子の出羽郡司小野良真の娘、小野宰相常詞の娘など、出生については諸説あって不明。
恋愛歌で知られ、『古今和歌集』など勅撰集に62首が入っている。家集の『小町集』(1巻)は後人の撰。
文屋康秀・凡河内躬恒・在原業平・安倍清行・小野貞樹・僧遍昭らとの贈答歌がある。
絶世の美女としても有名で、謡曲・浄瑠璃・御伽草子などの題材となったり、全国の小町塚や小町誕生の井戸などいろいろな伝説が多い。
◎「花の色はうつりにけりないたづらに/わが身よにふるながめせしまに」(百人一首)。
◆小町堂まつり[ 6.20]秋田県雄勝郡雄勝町(オガチマチ)の小町堂で追善の催し。
忌日は旧暦 3.18とされている。
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小野 お通
1559(永禄 2)
1616(元和 2)
◇歴代美濃に住した小野正秀の娘。和歌・書画・糸竹(管弦)の技に秀で、淀君(ヨドギミ)や千姫に仕えた。
(25)生没年:1568~1631?。
◎『浄瑠璃十二段草子』を作ったされるが、現在誤り伝えられたとされ否定されている。
1559(永禄 2)
1616(元和 2)
◇歴代美濃に住した小野正秀の娘。和歌・書画・糸竹(管弦)の技に秀で、淀君(ヨドギミ)や千姫に仕えた。
(25)生没年:1568~1631?。
◎『浄瑠璃十二段草子』を作ったされるが、現在誤り伝えられたとされ否定されている。
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小野 妹子
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の廷臣。隋では蘇因高(ソインコウ)と称する。
607年、聖徳太子に選ばれ最初の遣隋使となり、煬帝(ヨウダイ)に国書を提出、翌年隋使裴世清(ハイセイセイ)とともに帰朝。隋使帰国のとき再び大使として隋に渡る。
生年不詳
没年不詳
◇飛鳥時代の廷臣。隋では蘇因高(ソインコウ)と称する。
607年、聖徳太子に選ばれ最初の遣隋使となり、煬帝(ヨウダイ)に国書を提出、翌年隋使裴世清(ハイセイセイ)とともに帰朝。隋使帰国のとき再び大使として隋に渡る。
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小野寺 秀和
1643(寛永20)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、京都の留守居役、禄高150石、役料70石。通称は十内(シュウナイ)、戒名は刃以串剣信士、吉良家の探索中の変名は仙北十庵(センボク・ジュウアン)または又四郎。妻丹女(タンジョ)は赤穂藩士灰方佐五右衛門(ハイカタ・サゴエモン)の娘、途中で脱盟した武具奉行藤兵衛(トウヘエ)の妹。小野寺幸右衛門(コウエモン)秀富(ヒデトミ)の養父。間瀬久太夫(マセ・キュウダユウ)の従兄。
浪人後、しばらく京都山科にいたが、大石主税(チカラ)良金(ヨシカネ)と江戸に出る。吉良家討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、横井儀右衛門(ギエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
1643(寛永20)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、京都の留守居役、禄高150石、役料70石。通称は十内(シュウナイ)、戒名は刃以串剣信士、吉良家の探索中の変名は仙北十庵(センボク・ジュウアン)または又四郎。妻丹女(タンジョ)は赤穂藩士灰方佐五右衛門(ハイカタ・サゴエモン)の娘、途中で脱盟した武具奉行藤兵衛(トウヘエ)の妹。小野寺幸右衛門(コウエモン)秀富(ヒデトミ)の養父。間瀬久太夫(マセ・キュウダユウ)の従兄。
浪人後、しばらく京都山科にいたが、大石主税(チカラ)良金(ヨシカネ)と江戸に出る。吉良家討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、横井儀右衛門(ギエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
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