か行
2006年01月08日
近藤 勇
1834(天保 5)
1868(慶応 4. 4.25)
◇新撰組局長。名は昌宣(マサヨシ)、幼名は勝五郎。武蔵国多摩郡上石原村(天領,現:調府市)の農家に宮川久次(郎)の三男として生れる。
1848年、牛込柳町の町道場試衛館の、天然理心流三代目宗家近藤周助に剣術を学ぶ。翌年、素質を見込まれて近藤周助の生家、島崎家の養子となり島崎勝太と改名。1861年、天然理心流宗家を継ぎ、近藤勇と改名。
1863(文久 3)将軍上洛に際し、列外警衛として浪士隊に参加。尊攘派につながりを持ち始めた清川八郎らが幕命で江戸に呼び戻され、同年3月京都守護職の下に新撰組が組織され芹沢鴨(セリザワ・カモ)が局長となる。組内の勢力争いを起し、同年9月16日就寝中の芹沢を謀殺(粛清)して局長となる。
1864(元治元. 6. 5)池田屋襲撃、翌月禁門の変(蛤御門の戦)で長州を撃退。1867(慶応 3. 6.)見廻組頭取を兼任、旗本に列せられる。1868(慶応 4. 1.)鳥羽・伏見の戦で先鋒をつとめ、敗退。
江戸に帰ると幕府から若年寄格に列せられる。甲陽鎮撫隊を結成して官軍(新政府軍)と甲斐国勝沼で戦って敗れる。上野の彰義隊と呼応して下総(シモウサ)流山に陣を張るが西軍に包囲され偽名(大久保大和)で降伏し、見破られて武蔵板橋の馬捨て場で岡田藩の横倉喜三次により斬首されて晒首。
(*)1848(弘化 5,嘉永元),1861(万延 2,文久元)。
◎勇の首は板橋で晒された後、火酒に漬けられて京都三条河原で再び晒され、その後は不明。一説に、新撰組の縁故者に奪取され愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬。
◆墓は東京都三鷹市大沢六丁目の龍源寺。
1876(明治 9)造立の新撰組隊士供養塔(碑銘は近藤勇宣昌<逆になっている>・土方歳三義豊之墓)は東京都北区滝野川の寿徳寺の飛び地(板橋駅前)にある。
1834(天保 5)
1868(慶応 4. 4.25)
◇新撰組局長。名は昌宣(マサヨシ)、幼名は勝五郎。武蔵国多摩郡上石原村(天領,現:調府市)の農家に宮川久次(郎)の三男として生れる。
1848年、牛込柳町の町道場試衛館の、天然理心流三代目宗家近藤周助に剣術を学ぶ。翌年、素質を見込まれて近藤周助の生家、島崎家の養子となり島崎勝太と改名。1861年、天然理心流宗家を継ぎ、近藤勇と改名。
1863(文久 3)将軍上洛に際し、列外警衛として浪士隊に参加。尊攘派につながりを持ち始めた清川八郎らが幕命で江戸に呼び戻され、同年3月京都守護職の下に新撰組が組織され芹沢鴨(セリザワ・カモ)が局長となる。組内の勢力争いを起し、同年9月16日就寝中の芹沢を謀殺(粛清)して局長となる。
1864(元治元. 6. 5)池田屋襲撃、翌月禁門の変(蛤御門の戦)で長州を撃退。1867(慶応 3. 6.)見廻組頭取を兼任、旗本に列せられる。1868(慶応 4. 1.)鳥羽・伏見の戦で先鋒をつとめ、敗退。
江戸に帰ると幕府から若年寄格に列せられる。甲陽鎮撫隊を結成して官軍(新政府軍)と甲斐国勝沼で戦って敗れる。上野の彰義隊と呼応して下総(シモウサ)流山に陣を張るが西軍に包囲され偽名(大久保大和)で降伏し、見破られて武蔵板橋の馬捨て場で岡田藩の横倉喜三次により斬首されて晒首。
(*)1848(弘化 5,嘉永元),1861(万延 2,文久元)。
◎勇の首は板橋で晒された後、火酒に漬けられて京都三条河原で再び晒され、その後は不明。一説に、新撰組の縁故者に奪取され愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬。
◆墓は東京都三鷹市大沢六丁目の龍源寺。
1876(明治 9)造立の新撰組隊士供養塔(碑銘は近藤勇宣昌<逆になっている>・土方歳三義豊之墓)は東京都北区滝野川の寿徳寺の飛び地(板橋駅前)にある。
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権田 直助
1809(文化 6)
1887. 6. 8(明治20)
◇江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家。号は名越舎(ナゴシノヤ)。武蔵国入間郡(埼玉県)生れ。医者権田直教(ナオノリ)の子。
19歳で江戸に出て、幕府医官野間広春院に医学を、安積艮斎(アサカ・ゴンサイ)に儒学を学び、帰郷して医者を開業。
1837(天保 8)平田篤胤に入門、神道を基礎とした皇朝医学を唱える。
1862(文久 2)上京して尊皇討幕に奔走。1867(慶応 3)西郷隆盛の意を受けて相良総三らとともに薩摩藩邸焼き打ちに関与。
1869(明治 2)刑法官監察使・大学中博士・医道御用掛。1871(明治 4. 3.)国事犯嫌疑により矢野玄道(ハルミチ)・角田忠行(タダユキ)・丸山作楽(サクラ)らとともに捕縛され、権田は金沢藩邸に監禁。
1873(明治 6)相模国大山阿夫利神社祠官。1882(明治15)皇典講究所教授。
1809(文化 6)
1887. 6. 8(明治20)
◇江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家。号は名越舎(ナゴシノヤ)。武蔵国入間郡(埼玉県)生れ。医者権田直教(ナオノリ)の子。
19歳で江戸に出て、幕府医官野間広春院に医学を、安積艮斎(アサカ・ゴンサイ)に儒学を学び、帰郷して医者を開業。
1837(天保 8)平田篤胤に入門、神道を基礎とした皇朝医学を唱える。
1862(文久 2)上京して尊皇討幕に奔走。1867(慶応 3)西郷隆盛の意を受けて相良総三らとともに薩摩藩邸焼き打ちに関与。
1869(明治 2)刑法官監察使・大学中博士・医道御用掛。1871(明治 4. 3.)国事犯嫌疑により矢野玄道(ハルミチ)・角田忠行(タダユキ)・丸山作楽(サクラ)らとともに捕縛され、権田は金沢藩邸に監禁。
1873(明治 6)相模国大山阿夫利神社祠官。1882(明治15)皇典講究所教授。
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