さ行

2006年01月08日

曾我廼家 十郎
1869(明治 2)
1925(大正14)

◇明治・大正期の喜劇俳優喜劇劇作家。本名は大松福松、筆名は和老亭(ワロウテイ)倉三・和郎亭当郎。三重県生れ。
 1904(明治37)曾我廼家五郎とともに喜劇団「曾我廼家」を結成。1913(大正 2)五郎と別れ、東京有楽座に一座を興す。

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曾我廼家 五郎
1877. 9. 6(明治10)
1948.10. 1(昭和23)

◇喜劇俳優・喜劇劇作家。本名は和田久一、筆名は一堺漁人(イッカイギョジン)。大阪堺生れ。
 1904(明治37)曾我廼家十郎とともに喜劇団「曾我廼家」を結成。1913(大正 2)十郎と別れ、渡欧し帰国後に「平民劇団」のち「五郎劇」を組織。(?)没日、11. 1。

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蘇我倉山田 石川麻呂
生年不詳
 649(大化 5)

◇孝徳朝の政治家。氏は蘇我倉山田、名は麻呂、蘇我石川麻呂とも呼ぶ。蘇我馬子(ウマコ)の孫、倉麻呂の子、日向(ヒムカ)・連子(ムラジコ)・赤兄(アカエ)の兄。
 宗家の蘇我蝦夷(エミシ)・入鹿(イルカ)らに反目していたため、蘇我一族の分裂を図る中臣鎌足に引き入れられ、娘の遠智娘(オチノイラツメ)を中大兄皇子の妃とするなど皇子と結び、大化改新に参画。大極殿で蘇我入鹿を暗殺する際は三韓の表文を読み上げる役割をする。
 孝徳天皇の即位とともに右大臣に任ぜられる。左大臣阿倍内麻呂の死 649(大化 5. 3.17)の翌月、異母弟蘇我日向の讒言(ザンゲン)を受け、日向が率いる中大兄皇子の軍が来る前に、難波から大和飛鳥の山田寺に逃げ、長子興志が兵を集めるのを制して自刃。その直後に石川麻呂の潔白が証明され、日向は筑紫大宰帥に任じられ左遷。

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蘇我 蝦夷
生年不詳
 645[皇極 4]

◇飛鳥時代の廷臣。蘇我馬子(ウマコ)の子。馬子の次に大臣(オオオミ)となり、 628年推古天皇が死ぬと舒明天皇を立て、権勢が天皇家を凌ぎ専横をきわめた。 645年に子の蘇我入鹿が暗殺されると家に火をかけて自殺。

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蘇我 馬子
生年不詳
 626[推古34]

◇飛鳥時代の廷臣。蘇我稲目(イナメ)の子、赤兄(アカエ)の祖父。
 稲目の次に大臣(オオオミ)となり、 587年に排仏派の物部守屋(モノノベノモリヤ)を聖徳太子とともに滅ぼし、のち専横をきわめた。それを憎んだ崇峻(スシュン)天皇を 592年に殺した。推古天皇の時は摂政聖徳太子と協調したが、太子の死後また権力を握った。
◎奈良県高市郡(タカイチグン)明日香村(アスカムラ)島庄(シマノショウ)にある石舞台(イシブタイ)古墳を馬子の墓とする説がある。

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蘇我 入鹿
生年不詳
 645[皇極 4]

◇飛鳥時代の廷臣。蘇我蝦夷(エミシ)の子。舒明天皇没後、古人(フルヒト)王を即位させようとし、聖徳太子の子山背大兄(ヤマシロオオエ)王を殺したが、大化の改新( 645年)に暗殺された。
◎奈良県高市郡(タカイチグン)明日香村(アスカムラ)に蘇我入鹿首塚と呼ばれる五輪塔がある。

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蘇我 稲目
生年不詳
 570

◇飛鳥時代の廷臣。蘇我高麗(コマ)の子。用明・崇峻・推古3天皇の外祖父。
 6世紀に大臣(オオオミ)となり、 538(または 552)百済の聖明王より仏像・経典が献上されて仏教が伝来すると、物部尾輿(モノノベノオコシ)らと対立して崇仏を説き、仏像を豊浦の向原(ムクハラ)の家に安置。
 娘の堅塩媛(キタシヒメ)・小姉君(オアネギミ)を欽明天皇の大后・后に、石寸名(イシキナ)を用明天皇の后にし勢力を確立。
 死後、向原に桜井寺(のち向原寺)が建てられる。

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蘇我 石川麻呂

⇒そがのくらやまだのいしかわのまろ(蘇我倉山田 石川麻呂)

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蘇我 赤兄
 623[推古31]
 672[弘文元]

◇斉明・天智朝の官僚。舎人臣・蔵大臣と号する。蘇我倉麻呂(雄当<オマサ>)の子、蘇我馬子(ウマコ)の孫、蘇我常陸娘(ヒタチノイラツメ)・石川大(「艸」冠+「豕」旁+「生」)娘(オオヌノイラツメ)の父。
 大化改新以後、石川麻呂・連子(ムラジコ)ら兄弟とともに要職を占める。
  658[斉明 4.10.]斉明天皇の牟婁温泉に行幸(ギョウコウ)のとき留守司となり、11月有馬皇子(アリマノミコ)に謀反(ムホン)をすすめながら、兵を起して皇子を捕える。
  669[天智 8. 1.]筑紫率(ツクシノソツ)。 671[天智10. 1.]左大臣。
  672[弘文元. 8.]壬申の乱に近江(大友皇子)方につき、敗れ捕われて子孫らとともに流罪。
(2)倉麻呂(雄正)の子……。
(15)倉麻呂(雄当<オマサ>)の子……。
 蘇我倉山田石川麻呂の項:倉麻呂(雄当<スマサ>)の子.

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曽我 時致
1174(承安 4)
1193(建久 4)

◇鎌倉初期の武士。伊豆の豪族河津三郎祐重(スケシゲ)(祐泰<スケヤス>)の子。幼名は箱王、のち五郎。母が曽我祐信(スケノブ)と再婚したので曽我を名のった。
 3歳の時に、伊豆に流されていた源頼朝(ヨリトモ)を慰めるために催された奥野の狩りで父が、所領争いから工藤祐経(スケツネ)の家来に討たれた。
 1193(建久 4. 5.28夜)兄祐成(スケナリ)と共に富士野の巻狩の際、父の仇(アダ)を討つ。時致は生け捕えられて殺された。
◎東京都江東区の法乗院に曽我五郎の足跡といわれる石があり、この足跡に自分の足をのせると親孝行になるといわれている。

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