た行
鳥居 竜蔵
1870(明治 3)
1953(昭和28)
◇人類学者・考古学者。徳島市生れ。
東京大学人類学教室主任、1921(大正10)助教授。
1939(昭和14)北京の燕京大学に招かれ、千島・樺太・沿海州・満州・朝鮮などを調査。
正規の大学教育を受けていなかったため、当時の評価は低かった。
1870(明治 3)
1953(昭和28)
◇人類学者・考古学者。徳島市生れ。
東京大学人類学教室主任、1921(大正10)助教授。
1939(昭和14)北京の燕京大学に招かれ、千島・樺太・沿海州・満州・朝鮮などを調査。
正規の大学教育を受けていなかったため、当時の評価は低かった。
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鳥居 耀蔵
1796.12.22(寛政8.11.24)
1873.10. 3(明治 6)
◇江戸幕末の幕臣。名は忠耀(タダテル)、号は胖庵、通称は甲斐守。林述斎の次子、母は側室前原八耀。旗本鳥居一学の養嗣子。
1837(天保 8)目付となり、大塩平八郎の処理・蛮社の獄で洋学を弾圧などを行う。老中水野忠邦の信任を得て、1841(天保12)江戸町奉行。1843(天保14)印旛沼の開墾を担当、勘定奉行勝手方。1844年、失脚して丸亀藩に預けられ、明治維新後に釈放。
(*)1804(享和 4,文化元)、1844(天保15,弘化元)。
(2)生年は1815(文化12)、没年は1874(明治7)。林述斎の次男。
(6)生年は1804、没年は1874。林述斎の次子。
(19)生没年は(1796~1873)。林述斎の三男。
(23)生年は寛政8.11.24(1796.12.22)、没年は明治6(1873).10.3。
林述斎の第7子。
◎渋川六蔵・後藤三右衛門とともに水野の三羽烏と呼ばれる。
取締の厳しさから、妖怪(耀甲斐)と恐れられる。
◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。墓誌による没日は明治六年十月三日歿七十八歳。
1796.12.22(寛政8.11.24)
1873.10. 3(明治 6)
◇江戸幕末の幕臣。名は忠耀(タダテル)、号は胖庵、通称は甲斐守。林述斎の次子、母は側室前原八耀。旗本鳥居一学の養嗣子。
1837(天保 8)目付となり、大塩平八郎の処理・蛮社の獄で洋学を弾圧などを行う。老中水野忠邦の信任を得て、1841(天保12)江戸町奉行。1843(天保14)印旛沼の開墾を担当、勘定奉行勝手方。1844年、失脚して丸亀藩に預けられ、明治維新後に釈放。
(*)1804(享和 4,文化元)、1844(天保15,弘化元)。
(2)生年は1815(文化12)、没年は1874(明治7)。林述斎の次男。
(6)生年は1804、没年は1874。林述斎の次子。
(19)生没年は(1796~1873)。林述斎の三男。
(23)生年は寛政8.11.24(1796.12.22)、没年は明治6(1873).10.3。
林述斎の第7子。
◎渋川六蔵・後藤三右衛門とともに水野の三羽烏と呼ばれる。
取締の厳しさから、妖怪(耀甲斐)と恐れられる。
◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。墓誌による没日は明治六年十月三日歿七十八歳。
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鳥居 元忠
1539(天文 8)
1600(慶長 5)
◇安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門。忠吉の子。
徳川譜代の家臣で家康に仕え、姉川・三方ヶ原・長篠などの戦に功を立てる。本能寺の変後、甲斐国都留郡を与えられる。小田原の役で武蔵国岩槻城の攻略に活躍。
家康が関東に転封する際、下総国矢作4万石を与えられる。
関ヶ原戦で家康の上杉景勝征伐に当り、伏見城に留守し籠城、石田方に囲まれて自刃。
1539(天文 8)
1600(慶長 5)
◇安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門。忠吉の子。
徳川譜代の家臣で家康に仕え、姉川・三方ヶ原・長篠などの戦に功を立てる。本能寺の変後、甲斐国都留郡を与えられる。小田原の役で武蔵国岩槻城の攻略に活躍。
家康が関東に転封する際、下総国矢作4万石を与えられる。
関ヶ原戦で家康の上杉景勝征伐に当り、伏見城に留守し籠城、石田方に囲まれて自刃。
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