た行

2006年01月08日

鳥居 素川
1867(慶応 3. 7. 4)
1928. 3.10(昭和 3)

◇新聞記者。本名は赫雄(テルオ)。肥後生れ。
 1897(明治30)大阪朝日新聞に入社。池辺三山のあと編集局長に就任。第一次大戦下、寺内正毅内閣を攻撃し民本主義の論陣を張る。1918(大正 7)白虹(ハッコウ)事件の筆禍により引責辞任。

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鳥居 強右衛門
生年不詳
1575(天正 3)

◇戦国時代の武士。名は勝商(カツアキ)、通称は強右衛門。三河長篠城主奥平貞昌(信昌)の家臣。
 1575(天正 3)武田勝頼(カツヨリ)の軍が長篠城を包囲したとき、密使として脱出し徳川家康(イエヤス)に援けを求める。帰途捕えられ、援軍が来ないことを告げるように命ぜられ、城前に至って援軍の来ることを大声で伝え、磔(ハリツケ)にされる。

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鳥居 清長
1752(宝暦 2)
1815(文化12)

◇江戸後期の浮世絵師。旧姓は関口、俗称は白子屋市兵衛。浦賀の人、一説に江戸の人。
 江戸に出て書店を営み、鳥居清満の門に学ぶ。
 はじめは鳥居風の役者絵を描いたが、しだいに美人画に移り、流麗な描線と明快な色調で一世を風靡。
 師清満の死後、養子となり鳥居家四代を継ぐ。
 代表作は『美南見(ミナミ)十二候』・『風俗東之錦(フウゾクアヅマノニシキ)』など。

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虎沢 検校
生年不詳
1654(承応 3)

◇江戸初期(文禄・慶長期)の三味線の演奏家・作曲家。
 三味線本手(組歌)の創始者石村検校(一説に中小路)を師とし、師とともに組歌の本手と破手(ハデ)とを定める。
 門下に沢住検校・滝野検校、孫弟子に柳川流の創始者柳川検校がいる。

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豊原 時元
1068(治暦 4)頃
1123(保安 4. 6.21)

◇平安後期の笙(ショウ)の名人。時秋の父。正五位上。堀川院の師範。

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豊臣 秀頼
1593(文禄 2. 8. 3)
1615(慶長20. 5. 8)

◇安土桃山・江戸初期の大名。幼名はお拾い・拾丸。豊臣秀吉(ヒデヨシ)の次男、母は淀君。鎌倉東慶寺の天秀尼(テンシュウニ)の父、夭折した鶴松の同母弟。室は第2代将軍徳川秀忠(ヒデタダ)の娘千姫。
 1600(慶長 5)関ヶ原の戦に敗れ、摂津・河内・和泉65万7千石余の一大名となる。
 1603(慶長 8)11歳で内大臣、徳川家と円満をはかるため片桐且元(カツモト)らの尽力で徳川秀忠の長女千姫(7歳)を娶る。
 1611(慶長16)徳川家康に呼ばれ、京都二条城で会見。
 1614(慶長19.11.)大坂冬の陣と翌1615(慶長20. 5.)夏の陣に敗れ、大坂城に火を放ち母淀君とともに自刃。

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豊臣 秀吉
1536(天文 5. 1. 1)
1598(慶長 3. 8.18)

◇戦国・安土桃山時代の武将。幼名は日吉・日吉丸(ヒヨシマル)、のち木下藤吉郎(キノシタ・トウキチロウ)・羽柴秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)。尾張国愛知郡中村生れ。父は弥右衛門(ヤエモン)(鉄砲伝来の1543<天文12>に没)で『太閤素生記』では織田信長の鉄砲足軽、『フロイス日本史』では貧しい百姓の伜。
 1551(天文20)15歳のとき家を飛び出し奉公口を求めて放浪、遠江国久能の城主松下加兵衛之綱(カヘエユキツナ)(今川氏の家臣)に仕える。
 1558(永禄元. 9.)18歳のとき尾張に戻り、清洲(キヨス)の織田信長の草履取りとなり、木下藤吉郎と改名。1563(永禄 6)普請奉行として清洲城を修築(100間を10組に分け競争で工事に当らせる)。1566(永禄 9)墨股(スノマタ)城築城に功をたてる。1570年、部将の地位を得て羽柴と改姓(丹羽長秀・柴田勝家にちなむ)、朝倉義景・浅井長政討伐に従軍。1573(天正元. 8.)浅井氏滅亡後、その遺領を与えられ、長浜に築城。1575(天正 3)筑前守に任ぜられる。
 1576(天正 4)中国地方の平定を任ぜられ、播磨・備前・美作(ミマサカ)・因幡(イナバ)の毛利氏の諸城を攻略する。1577(天正 5.10.)播磨の姫路城を根拠とし、11月但馬(タジマ)・山口・岩州(イワス)・竹田の諸城を降(クダ)す。ついで播磨国の上月景利(コウヅキ・カゲトシ)の上月城、別所長治(ベッショ・ナガハル)の三木城(ミキジョウ)を落す。1581(天正 9)姫路に帰り、信長の命を受け因幡に入り山名豊邦(ヤマナ・トヨクニ)の鳥取城を落し、一時淡路を征する。
 1582(天正10. 3.)備中に入り、清水宗治(ムネハル)の高松城を囲んでいたが、本能寺の変を知り直ちに毛利輝元(テルモト)と和睦。軍を返して四国征伐の援軍織田信孝(ノブタカ)・丹羽長秀(ニワ・ナガヒデ)とともに山崎の戦で明智光秀を倒す。
  6月18日織田信長・信忠(長男)ともに亡くなり後嗣(アトツギ)が清洲で話し合われる(清洲会議)。山崎の弔い合戦に加わった信長の三男信孝を柴田勝家・丹羽長秀・佐久間盛政(モリマサ)らが推し、次男信雄(ノブオ)を滝川一益(カズマス)が推し対立。光秀追討の勢いに乗る秀吉が、信雄は北畠家を、信孝は神戸(カンベ)家を継いでいるからと、信忠の長男三法師丸(のち秀信)を推し、反対するものがなく決定する。
 1583(天正11. 4.20)賤ヶ谷の戦で大勝し、柴田勝家・織田信孝を滅ぼし、滝川一益を降伏させる。同年11月、石山本願寺跡に大坂城を起工。1584(天正12)徳川家康と結んだ織田信雄と小牧(コマキ)・長久手(ナガクテ)に戦い、池田信輝(ノブテル)らを失い敗れて和睦する。のち家康の子秀康を養子とし、秀吉の異父妹朝日姫(アサヒヒメ)を家康の正室(後妻)とする。1585(天正13. 3.)紀伊の根来衆(ネゴロシュウ)・雑賀衆(サイカシュウ)を討ち、6月長宗我部元親(チョウソガベ・モトチカ)を降伏させて四国を平定。
 同年7月四国平定の功により従一位関白となり、藤原に改姓(関白はそれまで藤原氏以外に例がない)。同年8月前田利家(トシイエ)を先軍に越中富山城の佐々成政(サッサ・ナリマサ)を攻めて剃髪させる。同じ8月大坂城が完成、五奉行を置き大規模な大名の配置替えを行い、天下統一の体制を整える。
 豊臣姓を賜り、1586(天正14)太政大臣となる。同年聚楽第(ジュラクダイ)を着工。1587(天正15. 3.)九州征伐を行ない、薩摩島津義久(ヨシヒサ)を討ち、九州を平定し7月に大坂に凱旋。同年10月1日、京都の北野天満宮の境内で800以上の茶室が設ける大茶湯を催す。聚楽第が完成し、1588(天正16. 4.)後陽成(ゴヨウゼイ)天皇・正親町(オウギマチ)上皇が行幸(ギョウコウ)。1590(天正18. 3.)後北条氏政(ウジマサ)を小田原に滅亡させ、7月戦わずして奥州を平定し、天下を統一する。同年 9. 1京都に凱旋、調停に奏上する。
 1591(天正19)関白を養子秀次(ヒデツグ)(姉日秀の子)に譲り、太閤と称する。
 1592(文禄元)小西行長・加藤清正らを朝鮮に出兵させ、秀吉自ら 3.26京都を立ち、途中厳島(イツクシマ)神社に戦勝を祈願し、 4.25肥前名護屋に至る。1593(文禄 2. 5.)明の援軍の沈惟敬(シン・イケイ)を名護屋に迎え、講和の条件を示し、朝鮮より軍を引き揚げる(文禄の役)。
 1594(文禄 3)実子秀頼(ヒデヨリ)が生れる。1595(文禄 4)秀次を高野山で自殺させる(石田三成の讒言といわれる)。
 1596(慶長元. 9.)明使節(楊方享・沈惟敬)が来朝、講和条件が合わずこれを返し、1597(慶長 2. 1.)再び朝鮮に軍を進めたが、病気により軍を召還する(慶長の役)。秀吉の死後も戦いがあり、引き上げが完了するのは年末ごろ。
 太閤検地を実施し石高制の基礎を固める。刀狩り令や人払い令を発して兵農分離を進め、身分制を確立させる。
 外交面では1586(天正14)と1588(天正16)対馬の宗義智(ソウ・ヨシトモ)を、1589(天正17)僧玄蘇(ゲンソ)を朝鮮に遣わし、修好を求めている。同年、琉球王尚寧(ショウネイ)の遣いが、翌年朝鮮王李(「沿」の「三水」を「日」に替える)(リエン)の遣いが聚楽第に来るが、明に憚(ハバカ)り修好の返答は無かった。1591(天正19. 9.)朝鮮征伐の命を発する。さらに同年秋、原田孫七郎をフィリピン太守に遣い、1593(文禄 2.11.)台湾に書を送り、修好を求めているがともに不首尾。
(2)誕生日は1536(天文 5)(異)37。
 '85……豊臣姓勅許。
 '90……同年関白を辞して養子秀次に譲り,太閤となる。
(4)生年は1536。
 一八五八関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、九一年関白を養子秀次に譲って太閤と称。
(6)生年は1536。
 86年太政大臣となり豊臣の姓を賜った。
(16)誕生日は1536(天文 5. 1. 1)。
 '84(天正12)……翌年……関白となって豊臣氏を称した.
 '91(天正19)年関白職を養子秀次に譲り,太閤と称した.
(17)生年月日について、天文五年(一五三六)正月元日説と翌六年二月六日説とがあるが、確かな史料に「酉之御年」とみえるので、現在では天文六年説が支持されている。
(*)1570(永禄13,元亀元)。
 1536(天文 5)は丙申(ヒノエサル)歳。
 五大老:徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝。
 五奉行:浅野長政,石田三成,増田長盛,長束正家,前田玄以。

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豊臣 秀長

⇒はしば ひでなが(羽柴 秀長)

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豊臣 秀次
1568(永禄11)
1595(文禄 4. 7.15)

◇安土・桃山時代の武将。はじめ次兵衛のち孫七郎、通称は殺生関白。父は三好吉房、母は豊臣秀吉(ヒデヨシ)の姉瑞龍院日秀、秀吉の甥。
 はじめ宮部継潤に養われ、のち三好康長の養子となる。1583(天正11)秀吉の命により滝川一益(カズマス)を伊勢に攻め、ついで賤ヶ岳の戦いに従軍。1584(天正12)小牧・長久手(コマキナガクテ)の戦に三河侵攻の総大将となり、徳川家康に敗れる。1585(天正13. 3.)紀伊の根来衆(ネゴロシュウ)攻略、同6月四国征伐に秀吉の名代として長宗我部元親(チョウソカベ・モトチカ)を降伏させ、その功により、姓を三好から羽柴に改め、近江国八幡城主43万石となる。1587(天正15. 3.)九州征伐で5月島津義久(ヨシヒサ)を破る。1590(天正18. 3.)北条氏政(ウジマサ)・氏直(ウジナオ)の小田原攻囲に伊豆山中城を攻める。同年8月、陸奥の九戸政実(クノヘ・マサザネ)を討つ(九戸の乱)。
 1591(天正19)秀吉の長男鶴松が死に、秀吉の養子となり、内大臣に任ぜられ、関白を譲られて聚楽第に入る。1593(文禄 2)左大臣、横暴になり文禄の役に出陣せず。同年8月、秀吉に実子秀頼が誕生し疎(ウト)んぜられ、1595(文禄 4)謀反のうわさから高野山に追われ、青厳寺に入り剃髪するが従者5人とにも切腹させられる。さらにその首を三条河原に晒され、秀次の子弟・妻妾ら30余名も同所で斬られる。
(2)'91小田原の役後陸奥を征し……。
 その養子となり左大臣関白……。
(16)'90年の小田原攻囲に伊豆山中城を攻めて功をたてた.また同年九戸政実が陸奥に叛するとこれを討ち……。
 秀吉の養子となり,内大臣に任じられ,関白となる.'93(文禄 2)左大臣に進み…….

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豊田 実
1885. 9.16(明治18)
1972.11.22(昭和47)

◇英文学者。

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