は行
本多 利明
1743(寛保 3)
1820(文政 3.12.22)
◇江戸末期の経世家・和算家。幼名は長五郎のち繁八、通称は三郎右衛門、号は北夷・魯鈍斎・北夷先生、江戸音羽に住み音羽先生と呼ばれる。本多伊兵衛の子。越後国蒲原郡村山の生れ。
18歳で江戸に出て関流の和算を今井兼廷に、天文・暦学を千葉歳胤に、剣を山県大弐に学ぶ。
24歳の時、音羽に算学の塾を開き、かたわら蘭学を学び、開国・貿易・北防を説く。蘭書に地理を学び、1801年蝦夷地に渡航。1808(文化 5)幕府から蝦夷地案内役に召されるが、辞退して門弟最上徳内(モガミ・トクナイ)を派遣。
1809(文化 6)加賀藩に出仕、のち江戸に帰る。
(2)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没年は1820(異)21(文政 3)。本田とも記す。算学を今井兼庭に……。1809(文化 6)加賀藩に20人扶持で1年半ほど仕官したほかは……。
'08幕府から蝦夷地案内役に召されたが,自らは辞退して門弟最上徳内を推した。
「最上徳内」の項:1786(天明 6)幕命により利明に代って蝦夷地探検に赴き……。
(4)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1821。
(6)ほんだ としあきら(本多 利明)。生年は1743、没年は1820か21。今井兼廷に関流の和算……。晩年は招かれて加賀藩に出仕した。
(15)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没年は1820(文政 3)。
(16)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1820。算学を今井兼延・建部賢弘に学び…….1809(文化 6)加賀藩主に招聘されたが,半年にして江戸に帰る.
(*)1801(寛政13,享和元)。
1743(寛保 3)
1820(文政 3.12.22)
◇江戸末期の経世家・和算家。幼名は長五郎のち繁八、通称は三郎右衛門、号は北夷・魯鈍斎・北夷先生、江戸音羽に住み音羽先生と呼ばれる。本多伊兵衛の子。越後国蒲原郡村山の生れ。
18歳で江戸に出て関流の和算を今井兼廷に、天文・暦学を千葉歳胤に、剣を山県大弐に学ぶ。
24歳の時、音羽に算学の塾を開き、かたわら蘭学を学び、開国・貿易・北防を説く。蘭書に地理を学び、1801年蝦夷地に渡航。1808(文化 5)幕府から蝦夷地案内役に召されるが、辞退して門弟最上徳内(モガミ・トクナイ)を派遣。
1809(文化 6)加賀藩に出仕、のち江戸に帰る。
(2)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没年は1820(異)21(文政 3)。本田とも記す。算学を今井兼庭に……。1809(文化 6)加賀藩に20人扶持で1年半ほど仕官したほかは……。
'08幕府から蝦夷地案内役に召されたが,自らは辞退して門弟最上徳内を推した。
「最上徳内」の項:1786(天明 6)幕命により利明に代って蝦夷地探検に赴き……。
(4)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1821。
(6)ほんだ としあきら(本多 利明)。生年は1743、没年は1820か21。今井兼廷に関流の和算……。晩年は招かれて加賀藩に出仕した。
(15)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1743(寛保 3)、没年は1820(文政 3)。
(16)ほんだ としあき(本多 利明)。生年は1744、没年は1820。算学を今井兼延・建部賢弘に学び…….1809(文化 6)加賀藩主に招聘されたが,半年にして江戸に帰る.
(*)1801(寛政13,享和元)。
at 15:36|Permalink│