は行
本庄 陸男
1906. 2.20(明治39)
1939. 7.23(昭和14)
◇小説家。筆名は岩木喬・江藤三郎。北海道石狩川のほとりの別当(ベットウ)村生れ。1921(大正10)母方の叔父を頼って上京、青山師範に入学、1925(大正14)卒業。小学校教員となるが、1928(昭和 3)ナップに参加して教職を退く。肺結核で死去。
(1)生年は1905(明治38)。
(2)生年は1905(明治38)。
(3)生年は1906(明治39)。
(5)生年は1906(明治39)。
(10)生年は1905(明治38)。
(11)生年は1906(明治39)。
(13)生年は1905(明治38)。
1906. 2.20(明治39)
1939. 7.23(昭和14)
◇小説家。筆名は岩木喬・江藤三郎。北海道石狩川のほとりの別当(ベットウ)村生れ。1921(大正10)母方の叔父を頼って上京、青山師範に入学、1925(大正14)卒業。小学校教員となるが、1928(昭和 3)ナップに参加して教職を退く。肺結核で死去。
(1)生年は1905(明治38)。
(2)生年は1905(明治38)。
(3)生年は1906(明治39)。
(5)生年は1906(明治39)。
(10)生年は1905(明治38)。
(11)生年は1906(明治39)。
(13)生年は1905(明治38)。
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本阿弥 光悦
1558
1637(寛永14. 2. 3)
◇桃山~江戸初期の芸術家。「ほんなみ こうえつ(本阿弥 光悦)」とも呼ぶ。
刀剣の鑑定・研摩を業とする本阿弥家の分家に生れた。家業のほかに書道(青蓮院流)は寛永三筆の一人といわれ、蒔絵は斬新な意匠を考案し、楽焼に秀で、茶道を嗜んだ。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
◆光悦忌[旧暦 2. 3]。
◆光悦忌茶会[11.10~11.13]京都市北区高ヶ峰の光悦寺。
1558
1637(寛永14. 2. 3)
◇桃山~江戸初期の芸術家。「ほんなみ こうえつ(本阿弥 光悦)」とも呼ぶ。
刀剣の鑑定・研摩を業とする本阿弥家の分家に生れた。家業のほかに書道(青蓮院流)は寛永三筆の一人といわれ、蒔絵は斬新な意匠を考案し、楽焼に秀で、茶道を嗜んだ。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。
◆光悦忌[旧暦 2. 3]。
◆光悦忌茶会[11.10~11.13]京都市北区高ヶ峰の光悦寺。
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堀部 武庸
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻兼祐筆役、禄高200石。通称は安兵衛(ヤスベエ)、戒名は刃雲輝剣信士。吉良家の探索中の変名は長江長左衛門(ナガエ・チョウザエモン)。父は中山弥次右衛門(ヤジエモン)、元越後新発田溝口(ミゾグチ)家の家臣、馬廻役、禄高200石。
父弥次右衛門が過って城中隅櫓(スミヤグラ)で火を出し、その罪で浪人。安兵衛は中山家再興を願っていたが、堀部弥兵衛(ヤヘエ)金丸(アキザネ)の懇望により入婿する。
吉良家の屋敷の絵図を、前住者の松平登之助(ノボリノスケ)のときのものを入手する。
吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、荒川十太夫(アラカワ・ジュウダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。
◎講談の「高田馬場の十八番斬り」で有名。伯父菅野六郎左衛門(スガノ・ロクロウザエモン)の助太刀に駆け付けた安兵衛に、襷(タスキ)にする緋縮緬(ヒチリメン)の腰紐を渡したのが弥兵衛の娘「おほり」である。
後年、妙海尼(ミョウカイニ)が弥兵衛の娘・安兵衛の妻として名乗り出ている。
1670(寛文10)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻兼祐筆役、禄高200石。通称は安兵衛(ヤスベエ)、戒名は刃雲輝剣信士。吉良家の探索中の変名は長江長左衛門(ナガエ・チョウザエモン)。父は中山弥次右衛門(ヤジエモン)、元越後新発田溝口(ミゾグチ)家の家臣、馬廻役、禄高200石。
父弥次右衛門が過って城中隅櫓(スミヤグラ)で火を出し、その罪で浪人。安兵衛は中山家再興を願っていたが、堀部弥兵衛(ヤヘエ)金丸(アキザネ)の懇望により入婿する。
吉良家の屋敷の絵図を、前住者の松平登之助(ノボリノスケ)のときのものを入手する。
吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、荒川十太夫(アラカワ・ジュウダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。
◎講談の「高田馬場の十八番斬り」で有名。伯父菅野六郎左衛門(スガノ・ロクロウザエモン)の助太刀に駆け付けた安兵衛に、襷(タスキ)にする緋縮緬(ヒチリメン)の腰紐を渡したのが弥兵衛の娘「おほり」である。
後年、妙海尼(ミョウカイニ)が弥兵衛の娘・安兵衛の妻として名乗り出ている。
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堀部 金丸
1627(寛永 4)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士(最年長)。赤穂藩士、江戸留守居役。通称は弥兵衛(ヤヘエ)、戒名は刃毛知剣信士。堀部安兵衛(ヤスベエ)武庸(タケツネ)の養父。妻は「わか」、娘は「おほり」。浅野長直(ナガナオ)・長友(ナガトモ)・長矩(ナガノリ)の三代に仕える。
吉良家討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、米良市右衛門(メラ・イチエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
(2)浅野長直に仕えて300石,浅野長矩のとき江戸留守居となる。中山安兵衛を養子として隠居,隠居料20石。(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』成美堂出版昭和56年11月 1日初版発行監修:尾崎秀樹昭和57年 1月10日四刷発行
三百二十石。
1627(寛永 4)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士(最年長)。赤穂藩士、江戸留守居役。通称は弥兵衛(ヤヘエ)、戒名は刃毛知剣信士。堀部安兵衛(ヤスベエ)武庸(タケツネ)の養父。妻は「わか」、娘は「おほり」。浅野長直(ナガナオ)・長友(ナガトモ)・長矩(ナガノリ)の三代に仕える。
吉良家討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、米良市右衛門(メラ・イチエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。
(2)浅野長直に仕えて300石,浅野長矩のとき江戸留守居となる。中山安兵衛を養子として隠居,隠居料20石。(+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』成美堂出版昭和56年11月 1日初版発行監修:尾崎秀樹昭和57年 1月10日四刷発行
三百二十石。
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