ま行
2006年01月08日
護良 親王
1308
1335(<南>建武 2,<北>建武 2. 7.23)
◇南北朝時代の皇族武将。後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘親子。初め出家し尊雲法親王(ソンウンホウシンノウ)と称し、世に大塔宮(オオトウノミヤ,ダイトウノミヤ)という。
1325(正中 2)討幕のため有力神社との結び付きを図る後醍醐天皇の意を受けて、延暦寺梶井門主を継ぎ大塔に入室。1326年、梨本門跡・大僧都となる。1327(嘉暦 2)天台座主となり、関東(鎌倉幕府)調伏(チョウブク)の祈祷を盛んに行う。1329年、座主を辞す。
1331(元弘元)後醍醐天皇が笠置山(カサギヤマ)で挙兵し、元弘の変が起こると僧兵をひきいて六波羅探題の兵と戦い、のち楠木正成(マサシゲ)の河内国赤坂城に入る。1332(<南>元弘 2,<北>正慶元)討幕を計り還俗(ゲンゾク)し護良と改め吉野に挙兵。1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)幕軍の足利尊氏が反旗をひるがえして六波羅探題を攻略、新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)が鎌倉の北条高時ら北条氏を滅ぼし、建武の中興が招来する。建武新政府では征夷大将軍・兵部卿に任ぜられたが、足利尊氏(タカウジ)と反目し常盤井殿に幽閉、1334年鎌倉に流され、尊氏の弟直義(タダヨシ)に預けられ二階堂千ヶ谷東光寺に幽閉。
1335(<南>建武 2,<北>建武 2. 7.)北条高時の子時行(トキユキ)が鎌倉を攻めた際(中先代<ナカセンダイ>の乱)、直義が使わした淵辺義博(フチノベ・ヨシヒロ)に殺された。
(2)後醍醐天皇の第1皇子。
(16)後醍醐天皇の第3皇子。
(*)1308(徳治 3,延慶元)、1326(正中 3,嘉暦元)、1329(嘉暦 4,元徳元)、1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正慶 3,<北>建武元)。
「もりよし」と読む説もある。
1308
1335(<南>建武 2,<北>建武 2. 7.23)
◇南北朝時代の皇族武将。後醍醐天皇の皇子。母は源師親の娘親子。初め出家し尊雲法親王(ソンウンホウシンノウ)と称し、世に大塔宮(オオトウノミヤ,ダイトウノミヤ)という。
1325(正中 2)討幕のため有力神社との結び付きを図る後醍醐天皇の意を受けて、延暦寺梶井門主を継ぎ大塔に入室。1326年、梨本門跡・大僧都となる。1327(嘉暦 2)天台座主となり、関東(鎌倉幕府)調伏(チョウブク)の祈祷を盛んに行う。1329年、座主を辞す。
1331(元弘元)後醍醐天皇が笠置山(カサギヤマ)で挙兵し、元弘の変が起こると僧兵をひきいて六波羅探題の兵と戦い、のち楠木正成(マサシゲ)の河内国赤坂城に入る。1332(<南>元弘 2,<北>正慶元)討幕を計り還俗(ゲンゾク)し護良と改め吉野に挙兵。1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)幕軍の足利尊氏が反旗をひるがえして六波羅探題を攻略、新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)が鎌倉の北条高時ら北条氏を滅ぼし、建武の中興が招来する。建武新政府では征夷大将軍・兵部卿に任ぜられたが、足利尊氏(タカウジ)と反目し常盤井殿に幽閉、1334年鎌倉に流され、尊氏の弟直義(タダヨシ)に預けられ二階堂千ヶ谷東光寺に幽閉。
1335(<南>建武 2,<北>建武 2. 7.)北条高時の子時行(トキユキ)が鎌倉を攻めた際(中先代<ナカセンダイ>の乱)、直義が使わした淵辺義博(フチノベ・ヨシヒロ)に殺された。
(2)後醍醐天皇の第1皇子。
(16)後醍醐天皇の第3皇子。
(*)1308(徳治 3,延慶元)、1326(正中 3,嘉暦元)、1329(嘉暦 4,元徳元)、1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正慶 3,<北>建武元)。
「もりよし」と読む説もある。
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