ら行

2006年01月08日

ロレンソ
1526(大永 6)
1592

◇安土桃山時代の日本人イエズス(ヤソ)会士。本名は了西(ロレンソの当て字か)、肥前の生れといわれる。
 片眼は全盲、他眼は半盲の琵琶法師であったが、1551(天文20)ザビエルの教えを受けて受洗。ザビエルの帰国後、1559(永禄 2)ガスパル・ビレラに従って上洛し、第13代将軍足利義輝(ヨシテル)の許可を得て布教する。1563(永禄 6)イエズス会に入り、イルマン(修道士)となる。1569(永禄12)フロイスに従い織田信長に謁見、席上で朝山日乗と宗論を行う。のち大坂城で豊臣秀吉にも謁見する。
(2)トルレス=ヴィレラに従い,……。晩年は肥前国大村で,説教を続けながら,余生を送った。
(6)トレスに学び,ビレラとともに近畿を布教。長崎で没。
(16)ガスパル=ビレラに従って上京し,……。
(*)1592(天正20,文禄元)。

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六角 義賢
1521
1598(慶長 3. 3.12)

◇戦国時代の守護大名。字は四郎。六角定頼(サダヨリ)の子。近江国南部を領する。
 1539(天文 8)従五位下左京大夫。1549(天文18)将軍足利義晴を援(タス)けて三好長慶と摂津国江口で戦い敗退。義晴の没後、その子将軍義輝を援ける。1558年、義輝を奉じて三好の軍勢と京都白河で戦い、和議が成立し義輝とともに入洛。1559(永禄 2)子の義治(義弼)に家督を譲り、剃髪し抜関斎承禎と号する。1563(永禄 6)後藤氏父子を暗殺し内乱が起き(観音寺騒動)、衰退する。
 1568(永禄11. 9.)足利義昭(のち将軍)を奉じて入洛しようとした織田信長に対抗、浅井長政(ナガマサ)に近江国栗太郡観音寺城を攻められ、甲賀山中に敗走。のち三好・浅井氏らと結び、信長軍の羽柴秀吉の長浜城(ナガハマジョウ)・柴田勝家の長光城(チョウコウジョウ)に戦ったが、1570年降伏。各地を転々とし、病没。これをもって六角氏が滅ぶ。
(*)1521(永正18,大永元),1558(弘治 4,永禄元),1570(永禄13,元亀元)。

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六角 高頼
1462(寛正 3)
1520(永正17.10.)

◇室町後期の守護大名。字はは四郎、通称は大膳太夫、本姓は佐々木。六角満高の子。
 近江国栗太郡観世音城に拠り、嘉吉の乱に赤松満祐(ミツスケ)を攻める。応仁の乱にも山名持豊(モチトヨ)に属す。乱が地方化するに従って、高頼ら近江の国人が皇室・公卿・寺社領・幕府領の荘園を押領して領主となり、幕府と対立。1487年、第9代将軍義尚(ヨシヒサ)・管領細川政元らに攻められ、甲賀から伊勢に逃れる。勢力を回復し、1491(延徳 3)新しく将軍になった第10代将軍義稙(ヨシタネ)や細川政元・畠山政長らと戦い、1492年再び甲賀山中に逃れる。家臣伊庭貞隆や九里氏の叛乱を鎮め勢力を回復。
 1508(永正 5)大内義興(ヨシオキ)が義稙を擁立したため、第11代将軍義澄(ヨシズミ)が高頼を頼り近江に逃れ、義澄を援けて義稙を奉じる義興と戦い、のち義稙と和睦する。
(2)近江国栗太郡観音寺城に拠り,……。のち義稙と和睦。
(16)近江観世音城に拠り,……。のちには義稙も庇護した.
(*)1487(文明19,長享元)、1492(延徳 4,明応元)。

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六角 紫水
1867(慶応 3. 8.20)
1950(昭和25. 4.15)

◇明治~昭和期の漆芸家。本名は注多良。広島県生れ。
 1893(明治26)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。母校の助教授となる。1904(明治37)岡倉天心とともに渡米、ボストン博物館東洋部に勤め、1908(明治41)ヨーロッパを経て帰国。
 日本美術院会員・東京美術学校教授・芸術院会員。
 楽浪漆器など古代の漆技を研究し、白漆を完成。
(6)白漆を完成……。
(16)白磁を完成……。

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六角 定頼
1495(明応 4)
1552(天文21)

◇室町後期の守護大名。本姓は佐々木、字は四郎、号は江雲、通称は弾正少弼。六角高頼(タカヨリ)の次男。六角義賢(ヨシタカ)の父。
 はじめ相国寺慈照院に入り吉侍者(または亀侍者)と称する。兄氏綱の廃嫡により還俗し家督を継いで近江国栗太郡観音寺城に拠る。
 1511(永正 8)第10代将軍足利義稙(ヨシタネ)の近侍となり、細川正賢を討って義稙を京都に迎える。
 1521年、義稙が細川高国と対立し淡路に出奔、高国とともに足利義晴(ヨシハル)を擁立、播磨(ハリマ)にいた第12代将軍義晴(ヨシハル)を奉じて京都に入る。1525(大永 5)高国とともに浅井亮政(スケマサ)を攻め、1532年京極高清(キョウゴク・タカキヨ)の調停で和睦。同年、山科本願寺を焼く。
 1546(天文15)義晴の子義輝(ヨシテル)(第13代将軍)の元服親をつとめ、管領に準じる処遇を受け、従四位下に叙せられる。
(*)1521(永正18,大永元)、1532(享禄 5,天文元)。

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六角 氏頼

⇒ささき うじより(佐々木 氏頼)

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魯迅
1881(明治14)
1936(昭和11)

◇近代中国の文学者。本名は周樹人。
 1902(明治35)日本に留学、仙台医学専門学校中退。東京で文学活動を開始。帰国後、多数の小説・評論を発表。国民党政府の思想弾圧に抵抗。
 代表作『狂人日記』・『阿Q正伝』・『吶喊』・『故郷』など。作品は口語(白話)を用い内容も大衆的であり、死後に中国のゴーリキといわれている。

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蝋山 政道
1895(明治28)
1980(昭和55)

◇政治学者。群馬県生れ。
 河合事件に際し東京帝国大学教授を辞任。
 第二次世界大戦後、お茶の水女子大学学長などを歴任。
 著書は『行政組織論』など。

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良弁(朗弁)
 689(朱鳥 3)
 773(宝亀 3.閏11.24)

◇奈良時代の僧侶(華厳宗)。俗姓は百済氏、通称は金鐘(コンシュ)行者・金鷲菩薩、「りょうべん」とも。日本華厳(ケゴン)宗の第二祖。
 伝説では二歳のときに母と桑畑にいて大鷲にさらわれ、大和の春日大社の前の杉(良弁杉)に捨てられた。義淵(ギエン)僧正に救われ、法相宗(ホッソウシュウ)を学ぶ。
 のち奈良東山に隠棲(インセイ)し、 733(天平 5)金鐘寺(キンショウジ)を建立、聖武天皇より羂索院(ケンジャクイン)(三月堂)を賜る。
  740(天平12)新羅僧審祥(シンジョウ)(華厳宗の開祖)を招き華厳を学び、『華厳経』を講説。
  742(天平14)金鐘寺、大和国分寺に指定。
  745(天平17)律師。
  746(天平18)聖武天皇の東大寺建立に尽力し、金鐘寺を改めて東大寺とし初代の別当となる。
  751(天平勝宝 3)少僧都。
  756(天平勝宝 8)鑑真(ガンジン)とともに大僧都。
  760(天平宝字 4. 8.)慈訓(ジキン)・法進とともに、退廃した仏教界の粛正のため僧階を4位13階に改めるべきことを奏上。
  749~ 757頃、近江(オウミ)(滋賀県大津市石山)に石山寺を開基。
  773(宝亀 4)没時、僧正に任じられる。
(*) 749(天平21,天平感宝元,天平勝宝元)、 757(天平勝宝 9,天平宝字)。

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老鼠堂 永機
1823(文政 6.10.10)
1904. 1.10(明治37)

◇俳諧師。通称は穂積善之、其角堂鼠肝(七世)、別号は阿心庵・善哉庵。
(8)其角堂 永機(きかくどう えいき)。

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