ら行
2006年01月08日
良忍
1073(延久 5)
1132
◇平安後期の僧・融通念仏宗の開祖。諡号(シゴウ)は聖応大師。尾張の人。
比叡山で出家し、東塔阿弥陀房の堂僧を勉(ツト)め、良賀に天台を学び、園城寺の禅仁から戒法を、仁和寺の永意から秘密灌頂を受ける。
1094年、京都大原に隠棲して来迎院を建立。念仏三昧に終始し、声明(ショウミョウ)を大成し、天台声明の中興の祖と仰がれる。
1117(永久 5)弥陀の示現をうけて融通念仏を創始、一人の念仏が万人に融通すると説き、諸国を遍歴して教化。
1127(大治 2)摂津国(大阪市)住吉に修楽寺(のちに大念仏寺)を建立し、根本道場とする。
(*)1094(寛治 8,嘉保元),1132(天承 2,長承元)。
◎偈(ゲ)「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」
1073(延久 5)
1132
◇平安後期の僧・融通念仏宗の開祖。諡号(シゴウ)は聖応大師。尾張の人。
比叡山で出家し、東塔阿弥陀房の堂僧を勉(ツト)め、良賀に天台を学び、園城寺の禅仁から戒法を、仁和寺の永意から秘密灌頂を受ける。
1094年、京都大原に隠棲して来迎院を建立。念仏三昧に終始し、声明(ショウミョウ)を大成し、天台声明の中興の祖と仰がれる。
1117(永久 5)弥陀の示現をうけて融通念仏を創始、一人の念仏が万人に融通すると説き、諸国を遍歴して教化。
1127(大治 2)摂津国(大阪市)住吉に修楽寺(のちに大念仏寺)を建立し、根本道場とする。
(*)1094(寛治 8,嘉保元),1132(天承 2,長承元)。
◎偈(ゲ)「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」
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良忠
1199(正治元)
1287(弘安10. 7. 6)
◇鎌倉中期の僧侶(浄土宗)。浄土宗鎮西義の第三祖。俗姓は藤原氏、字(アザナ)は然阿、勅諡(チョクシ)は記主禅師。石見国(現:島根県)三隅の僧侶の子。
15歳で出雲(現:島根県)鰐淵寺で出家。比叡山で諸宗を修め、道元から禅を学ぶ。
1236(嘉禎 2)筑後(現:福岡県)上妻庄の天福寺に鎮西義の弁長(ベンチョウ)を訪ね、弟子となる。翌年、手印を授けられる。
のち東国各地(上野・下野・常陸・上総・下総)の教化に努め、大仏朝直の帰依をうけて、1260(文応元)鎌倉に入り悟真寺(のち光明寺)を建立。
著書は『観経疏伝通記』・『浄土宗要集』など多数。
◎没後、関東の白旗派(シラハタハ)・藤田派・名越派(ナゴエハ)と、京都の三条流・一条流・小幡流の六流に分化。
1199(正治元)
1287(弘安10. 7. 6)
◇鎌倉中期の僧侶(浄土宗)。浄土宗鎮西義の第三祖。俗姓は藤原氏、字(アザナ)は然阿、勅諡(チョクシ)は記主禅師。石見国(現:島根県)三隅の僧侶の子。
15歳で出雲(現:島根県)鰐淵寺で出家。比叡山で諸宗を修め、道元から禅を学ぶ。
1236(嘉禎 2)筑後(現:福岡県)上妻庄の天福寺に鎮西義の弁長(ベンチョウ)を訪ね、弟子となる。翌年、手印を授けられる。
のち東国各地(上野・下野・常陸・上総・下総)の教化に努め、大仏朝直の帰依をうけて、1260(文応元)鎌倉に入り悟真寺(のち光明寺)を建立。
著書は『観経疏伝通記』・『浄土宗要集』など多数。
◎没後、関東の白旗派(シラハタハ)・藤田派・名越派(ナゴエハ)と、京都の三条流・一条流・小幡流の六流に分化。
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良源
912(延喜12)
985(永観 3. 1. 3)
◇平安中期の天台宗の高僧・天台宗中興の祖。名は良源、諡号(シゴウ)は慈慧(ジエ)大師、元三(ガンザン)大師・角(ツノ)大師とも呼ばれる。俗姓は木津。近江の人。
12歳の時に比叡山で出家し、三塔の一つ横川(ヨカワ)で修行。
954(天暦 8)横川に首楞厳院(シュリョウゴンイン)を建立。
966(康保 3)第18代天台座主(ザス)、さらに行基以来の大僧正となる。
藤原師輔(モロスケ)らの援助を受けて焼失した比叡山延暦寺を復興し、「天台宗中興の祖」と称せられる。
源信(ゲンシン)の師。
◎ 985(永観 3)の正月三日に入寂したことから「元三大師」と呼ばれる。
「角大師」は良源の容貌が魁偉(カイイ)であったことからで、二本の角の生えた夜叉姿の良源の木版刷り絵符は魔除けとして戸口などに貼る風習がある。
如意輪観世音の化身ともいわれる。
◎貴族の子弟を優遇して山門(サンモン)寺門(ジモン)の分裂・僧兵横行の因を作り、僧兵を始めた人物といわれる。
912(延喜12)
985(永観 3. 1. 3)
◇平安中期の天台宗の高僧・天台宗中興の祖。名は良源、諡号(シゴウ)は慈慧(ジエ)大師、元三(ガンザン)大師・角(ツノ)大師とも呼ばれる。俗姓は木津。近江の人。
12歳の時に比叡山で出家し、三塔の一つ横川(ヨカワ)で修行。
954(天暦 8)横川に首楞厳院(シュリョウゴンイン)を建立。
966(康保 3)第18代天台座主(ザス)、さらに行基以来の大僧正となる。
藤原師輔(モロスケ)らの援助を受けて焼失した比叡山延暦寺を復興し、「天台宗中興の祖」と称せられる。
源信(ゲンシン)の師。
◎ 985(永観 3)の正月三日に入寂したことから「元三大師」と呼ばれる。
「角大師」は良源の容貌が魁偉(カイイ)であったことからで、二本の角の生えた夜叉姿の良源の木版刷り絵符は魔除けとして戸口などに貼る風習がある。
如意輪観世音の化身ともいわれる。
◎貴族の子弟を優遇して山門(サンモン)寺門(ジモン)の分裂・僧兵横行の因を作り、僧兵を始めた人物といわれる。
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良寛
1758(宝暦 8)
1831(天保 2. 1. 6)
◇江戸後期の禅僧・歌人・書家。本名は山本栄蔵・文孝、字は曲(マガリ)、出家して良寛、号は大愚。越後国(新潟県)出雲崎(イズモザキ)の名主(ナヌシ)兼神職の家に長男として生れる。
1779(安永 8)22歳のとき跡継ぎを弟に譲り出家。同年、備中国(岡山県)玉島の曹洞宗円通寺の住職・国仙和尚の巡錫(ジュンシャク)にあい師事して玉島におもむき十余年修業。九州・四国地方を行脚(アンギャ)しのち出雲崎に帰って付近の寺々に転住、1804(文化元)47歳のときに国上山(クガミヤマ)中腹の五合庵に定住。1816(文化13)59歳のとき体力の衰えのため山麓の乙子(オトゴ)神社境内の庵に移住。1826(文政 9)69歳のとき島崎の木村元右衛門の邸内に移住、29歳の貞心尼を弟子とする。
万葉調の和歌で知られる。著書『蓮(ハチス)の露』・『僧良寛歌集』・『良寛漢詩集』など。
◆良寛忌[旧暦 1. 6]。
1758(宝暦 8)
1831(天保 2. 1. 6)
◇江戸後期の禅僧・歌人・書家。本名は山本栄蔵・文孝、字は曲(マガリ)、出家して良寛、号は大愚。越後国(新潟県)出雲崎(イズモザキ)の名主(ナヌシ)兼神職の家に長男として生れる。
1779(安永 8)22歳のとき跡継ぎを弟に譲り出家。同年、備中国(岡山県)玉島の曹洞宗円通寺の住職・国仙和尚の巡錫(ジュンシャク)にあい師事して玉島におもむき十余年修業。九州・四国地方を行脚(アンギャ)しのち出雲崎に帰って付近の寺々に転住、1804(文化元)47歳のときに国上山(クガミヤマ)中腹の五合庵に定住。1816(文化13)59歳のとき体力の衰えのため山麓の乙子(オトゴ)神社境内の庵に移住。1826(文政 9)69歳のとき島崎の木村元右衛門の邸内に移住、29歳の貞心尼を弟子とする。
万葉調の和歌で知られる。著書『蓮(ハチス)の露』・『僧良寛歌集』・『良寛漢詩集』など。
◆良寛忌[旧暦 1. 6]。
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滝亭 鯉丈
生年不詳
1841(天保12. 6.10)
◇江戸後期の滑稽本作者。本名は池田八右衛門。鯉丈の婿入り先の池田家は、元三〇〇石の旗本だったがすでに禄(ロク)がなかった。
生年不詳
1841(天保12. 6.10)
◇江戸後期の滑稽本作者。本名は池田八右衛門。鯉丈の婿入り先の池田家は、元三〇〇石の旗本だったがすでに禄(ロク)がなかった。
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柳亭 種彦
1783(天明 3. 5.12)
1842(天保13. 7.19)
◇江戸後期の読本(ヨミホン)・合巻(ゴウカン)作者。本名は高屋知久(トモヒサ)、通称は彦四郎、筆名は偐紫楼(ゲンシロウ)・足薪翁(ソクシンオウ)・木卯(ボクウ)、狂歌の狂名は心の種成(ココロノタネナリ)・一説に柳の風成(ヤナギノカゼナリ)のち心の種俊。江戸生れ。食禄200俵小普請組の直参(ジキサン)旗本。
山東京伝に私淑し読本・合巻を著す。
先代の第11代将軍徳川家斉(イエナリ)を風刺したとされ、天保改革で処罰。それが因で病死。
代表作は合巻『偐紫田舎源氏(ニセムラサキイナカゲンジ)』など。
1783(天明 3. 5.12)
1842(天保13. 7.19)
◇江戸後期の読本(ヨミホン)・合巻(ゴウカン)作者。本名は高屋知久(トモヒサ)、通称は彦四郎、筆名は偐紫楼(ゲンシロウ)・足薪翁(ソクシンオウ)・木卯(ボクウ)、狂歌の狂名は心の種成(ココロノタネナリ)・一説に柳の風成(ヤナギノカゼナリ)のち心の種俊。江戸生れ。食禄200俵小普請組の直参(ジキサン)旗本。
山東京伝に私淑し読本・合巻を著す。
先代の第11代将軍徳川家斉(イエナリ)を風刺したとされ、天保改革で処罰。それが因で病死。
代表作は合巻『偐紫田舎源氏(ニセムラサキイナカゲンジ)』など。
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